翻訳 · 14日 5月 2023
考えるということの実践的な培い
シュタイナーの1909年2月のベルリンでの公開公演のテキストです。 一般の方向けの公演とあって、平易なことばで語られています。 シュタイナー自身もインタビューで1000年後も残っているあなたの著作は何ですがと聞かれ「自由を考える」(通常「自由の哲学」と訳される)と回答しているように、彼の伝えようとしたところの核は「自由を考える」に内在されていますが、その「自由を考える」の入門編と言っていい内容です。
翻訳 · 16日 9月 2019
90年代後半に、シュタイナーハウスの会報に掲載されたシュタイナーの講演録の鈴木さんの翻訳です。考えてみれば自分の20代からの人生は下記の言葉に尽きる。「より重きをなすのは、まずもって、いくたりかの分かった人が集い、ふたたびコスモスから、この地において、なにごとかを、すなわちひとつのミヒャエル祭ということを、設けることであるはずです。」失敗ばかりですが、まだまだいくたりの分かった人とどう出会うかというところで七転八倒しております。秋の夜長にこころを起こす文章です。
略伝自由の哲学 · 15日 9月 2019
2017年の12月から足掛け1年10ヶ月でようやく鈴木さんの2000年代の略伝自由の哲学の連載を全てWebに投稿が完了となりました。既にお知らせ済みですが第十四章と「つまりの問い」の二つの章も略伝を書いていただくことを快く承諾していただいておりますので、近い将来そちらも投稿予定です。略伝の次は「人と世を知るということ − テオゾフィー −」のオンデマンド出版に取り掛かります。引き続きよろしくお願いいたします。
略伝自由の哲学 · 15日 9月 2019
こうすべしという表明は他者や自身のひとりの人としての可能性を見出していない。この現代的な課題は、特に本人自身に自分のひとりの可能性を見出す培いがなされていないことなんのではないかなと、十三章の略伝を読みながら想うとこです。
略伝自由の哲学 · 15日 9月 2019
「おそらく1970年代の終わりごろから、私たちは互いを「何を買ったか」という、消費における商品名=記号で認識するようになった。認識というより値踏みと呼んだほうが正確かもしれない。しかしそれ,は生活とは次元が異なるものだ。私たちが「生きている!」という実感は、記号にではなく、生活者としての日々のなかにある。記号は他のものに置き換え可能だが、地に足のついた生活は交換できない。」江弘毅『街場の大阪論』(バジリコ)を評した永江朗による書評(『週刊現代』2009年4月11日号)
略伝自由の哲学 · 15日 9月 2019
「生きるの楽の値は、二つのフアクターによって定まります。ひとつに、楽の量であり、もうひとつに、生きるにとっての必要をどういうスパンで括りとるか、言い換えれば、もよおしが強く、しぶといか、弱く、一時かぎりであるかです。(それにつけても、いまの商品の多くは、なんとも刹那的な欲をかきたてることでしょうか。青臭いことを言うようですが、もっと青臭く言うと、刹那的な欲を書き立てないと商売がなりたたないのは、なぜなのでしょうか。)」
略伝自由の哲学 · 13日 9月 2019
メモメモ!!「考えは考えるから生じます(ことに三の章)。そして、ただの考えがリアルでないように、ただの覚えもリアルではありませんに(ことに四の章)。リアリティ、すなわち、ものごとは考えと覚えの重なり合いにおいて生じます(ことに五の章)。さらに想いが生じるのも、その重なり合いからからであり、さらにまたその想いをもって思うことがなされます(ことに六の章)。」
略伝自由の哲学 · 13日 9月 2019
説教くさい人がテーマ!?ほんとそういう人はどうぞご勝手にですよね。人がどのように感じるかまでに口出しをするのはルール違反です。その人にとっての生きる値はその人にとっての値で他の人がとやかく言えるようなものではないです。といいつつかなり説教くさい自分に反省^^;
略伝自由の哲学 · 11日 9月 2019
こう詳らかに説明されると名高いショーペンハウワーや「自由の哲学」では常連のハルトマンの考えがとても稚拙であることがわかります。普通に生きていれば誰しももっている、願いを糧に勤しむ充実感。こんなふつうな満たされる気持ちがないがしろにされています。世の中ってまだまだ普通の人の普通のことが顧みられていないものですね。
略伝自由の哲学 · 11日 9月 2019
さぁ略伝最後の章、第十三章に突入です!!(当時の略伝連載では13章までで終了。現在鈴木さんに14章ともうひとつの最後の章の略伝執筆依頼しています!)人の生きるは、生きるに値するかというこれまたアクチュアルな今時な問いではないでしょうか?

さらに表示する