この回は十三の章の三十一の段からです。
それらのすべては、快が生きるの値の物指しであることを前提にしている。生きるは、もよおし(必要)の和によって表立つ。もし、生きるの値が生きるによって快と不快のどちらが多くもたらされるかに懸かるのであれば、不快の上回りをもたらすもよおしは値がないことになろう。ひとたび、もよおしと快に目を向けて、もよおしは快によって計ることができるのかどうかを視てみよう。生きるを「精神の貴族主義」の領分をもって起こしているといった疑いを呼び覚まさないように、「まぎれなく動物的な」必要、ひもじさからはじめよう。
これまでの二回で見てとったとおり、生きるの値、言い換えれば、生きるは生きるに値するかどうかということを、快、不快の量の差し引き勘定ではじきだすのは、生きるの現実(生命の実体)に沿っているよりも、むしろ生きるについての思惑であり、さながら経済における投機のごとくです。
ちなみに、快、不快で動くのは猫だそうです。わたくしごとですが、ついさきほど週刊誌の政治対談で読みました。ただ、政界の猫はともかくとして、実物の猫のほうは思惑からでなく(そもそも実物の猫は投機をしません)、もよおし(ないし本能)から動いています。なんとも賢いもよおしです。(「もよおし」に当たるのはTriebであり、treiben〈駆る、励ます、促す〉から来て、「本能、衝動、欲求、生長、若枝」といった意です。なお「もよおし」は生命現象のひとつであり、「表立つsich äußern」は現象するのひとつのかたちです。そして、その「立つ」は「虹や風がたつ」の「たつ」ではないでしょうか。)
はたして、人ないし生き物が現実に生きるにおいて、快と生きる(生命)はどういうかかわりにあるのでしょうか。すなわち、ここからは快、不快という、こころの現われから、もよおし(必要)という、生きる(生命)の表立ちへと、言うならば降りつつ考えてみることになります。(「必要」に当たるのはBedürfnisであり、bedürfen〈必要とする〉から来て、「欠乏、必要、欲求」といった意です。なおbedürfenのdürfenは「許されている、していい」といったモードを表します。)
三十二の段です。
ひもじさが立ち現われるのは、わたしたちの器官が新たに供される糧を欠いて、器官そのものに沿ったファンクションをくりだすことができないときである。ひもじさをかかえる人がさしあたり求めるのは、腹を満たすことである。糧がほどほどに供されて、ひもじさが収まるや、糧へのもよおしが求めて努めることのすべてがなしとげられている。腹を満たすことに結びつく楽は、まずひとつに空きっ腹が醸す苦を除くことにある。たんなる糧へのもよおしに、もうひとつの必要が加わる。人は糧を取り込むことによって、たんに妨げられた器官のファンクションを整えなおそうとするだけではなく、もしくは、空きっ腹の苦を脱しようとするだけではなくて、そのことをまた心地良い味の感覚を伴わせつつでなしとげようとする。それどころか、腹を空かしていても、あと半時ですてきな食事にありつけるときには、その前にさほどおいしくないもので腹を満たすことができるとしても、それによってもっとおいしいものでの快をだいなしにすることを避けさえもしよう。人は腹が空くことを要して、食事からまるまるの楽を得る。よって、空きっ腹は人にとって同時に快の起こし手となる。さて、世にあるひもじさというひもじさが宥(なだ)められるとしたら、糧の必要がありあわせることのおかげである快の量が、まるまる生じるであろう。そこにはさらに、ことさらな楽で、グルメな人が並のものを超える、味覚神経の耕しによって目指す楽が、加えて数えられよう。
生きるにおいて「もよおし」があり、もよおしにおいて「必要」があり、必要から「求め」が生じ、求めが満たされるにおいて「楽」があり、「快」があります。すなわち、快があり、楽があるためには、そもそもにおいて、もよおしのあることが欠かせません。ついでに、いうところの「ある」は、「光あれ」や「いったんことあれば」の「ある」で、「生(あ)る」というようにも記されることのある「ある」ではないでしょうか。(「立ち現れる」に当たるのはauftretenであり、auf〈起きて〉treten〈踏む〉というつくりで、「登場する、発生する、歩む」といった意です。なお、「立ち現れる」の「立つ」もまた「春や霞がたつ」の「たつ」ではないでしようか。そして「ひもじさ」「腹が空く」「空きっ腹」に当たるのはHungerです。)
加えて、腹を満たすにしても、おいしい もので満たしたいということがあり、また同じものを食べるにしても、おいしく食べたいということがあります。さらにまた、 たとえば鳩にしても、麻の実、玉蜀黍、小麦、高梁を混ぜた餌をあげると、まさにその順に選んで食べていきます。食べるといっても、ついばんだなり丸飲みですから、少なくても口や舌で味わってはいないはずなのですが、いったいどういうことなのでしょうか。(「楽」に当たるのはGenußであり、genießen 〈享受する〉から来て、「受用、享受、享楽、楽しみ、飲食」といった意であり、言うまでもなく「快」に通じます。)
はたまた、器官がなりたって働きがあり、働きがあって器官がなりたちます。そして、ことに人にあっては、胃が主として消化の器官であり、腸はなによりも吸収の器官であり、舌は味覚の器官であり、また言語の器官でもあります。(「ファンクションFunktion」は、いわば「体の働き(機能)、身の働き」または「体に組み込まれている働き、身につけられている働き」を指します。なお、それについてはことに5-c-1の回を見 てください。)
加えて、ことに人の味覚は、肥えたり、味にはまったり、癖になったりもすれば、ばかになったりもします。(「耕し」に当たるのはKulturであり、「耕作、栽培、飼育、文化、教養、洗練」といった意です。)
三十三の段です。
その楽の量が考えうる最も大きな値をもつとしたら、それは見てとられるところとなる趣の楽を目指す必要のなにひとつ満たされないままにはならず、かつまた、その楽がいささかの量の不快も代償とはしていないときであろう。
もしもですが、食べたいときに、食べたいものが、食べたいだけ、向こうからやってきて、お代も要らず、太るとか胃にもたれるとかの心配も要らず、後片付けとかも気に懸けるにはおよばずに、どこまでもおいしく食べて、心地良く食べ終えることができるとしたら、こと食べるに関するかぎり、それに勝る楽はありません。
三十四の段です。
いまの自然科学はこういう見解をとる。すなわち、自然は、保つことができるよりも多くの生命を産みだす。つまり、満たすことができるよりも多くの空きっ腹をも産みだす。産みだされる生命のありあまりは、きっと、生存の戦いの苦のもとに滅びる。なるほど、生きるにとっての必要は、世のことのどの一時においても、ありあわせる満たす手立てに見合うよりも大きく、生きるの楽は、そのことによって阻まれる。現実的にありあわせる生きるの楽のいちいちは、しかし、いささかも小さくならない。欲の満ち足りが生じるところには、それに見合った楽の量がありあわせる。よしんば、欲をもつものそのもののうちに、あるいは他のもののうちに、その楽と並んで満たされないもよおしが数多あるとしてもである。そのことによって減じるのは、しかし、生きるの楽の値である。生き物の必要のひとところが満ち足りを見いだすにおいて、その生き物がそれに見合った楽を有する。その楽は、問われるところとなる欲の分野における、生きるの求めのまるごととのかかわりで小さければ小さいほどに値が僅である。その値は分数で表されると考えることができよう。すなわち、分子は現実的にありあわせる楽であり、分母は必要の和である。その分数がの値を有するのは、分子と分母が等しいとき、つまり、必要という必要が満たされるときである。その分数が一より大きくなるのは、生き物において欲が求めるよりも多くの快がありあわせるときであり、より小さくなるのは、楽の量が必要の和よりも下回るときである。しかし、その分数は、分子がほんの僅かでも値を有するかぎり、けっしてゼロにはなりえない。ひとりの人が死ぬ前に勘定を締めようとし、ひとつの定かなもよおし(たとえばひもじさ)に及びくる楽の量を、生きるのまるごと、つまり、そのもよおしの求めという求めに割り振って考えるとして、生きられた快が、あるいはほんの僅かな値を有するだけになることもありはしようが、しかし、値なしにはけっしてなりえない。楽の量が同じままであれば、生き物にとっての必要が増すとともに、生きるの快の値が減る。同じことが自然における生命という生命の和についても当て嵌まる。生き物の数がもよおしの満ち足りを見いだすことができるものの数に比べて大きいほどに、生きるの快の平均値が僅かである。わたしたちのもよおしのうちに振り出されている、生きるの楽の為替手形がまさに安くなるのは、それをまるまるの額で受け戻すことが望めないときである。わたしが三日分の食べ物をもちあわせ、その後の三日を腹を空かして過ごすことになるとしても、食べる三日の楽がそのことによって減りはしない。しかし、わたしがその楽を六日に割り振って考えることになると、そのことによってその楽の値がわたしの食のもよおしにとって半分に減る。わたしのもよおしの度合いとのかかわりにおける、快の大きさについても同じである。わたしがパン二つ分の腹を空かしていながら、一つしか得ることができないときには、その一つから引き出される楽が有するのは、腹を満たして得られるときの半分の値である。それが生きるにおいて快の値が定まる趣である。その値は生きるにとっての必要に沿って定まる。わたしたちの欲が物指しであり、楽が計られるところである。腹を満たすの楽が値を得るのは、空きっ腹がありあわせることによってこそであり、そして、その楽が定かな大きさの値を得るのは、ありあわせるひもじさの大きさとのかかわりによってである。
自然ないし世において、生き物という生き物は糧を要しますし、その糧もまたおおむね生き物です。(「世のこと」に当たるのはWeltgeschehenであり、Welt〈世において〉geschehen〈起こること〉というつくりで、いわば「世の事象」のことです。なお、それについては、ことに3-eの回を見てください。)
すなわち、世ないし自然において、生き物という生き物の糧への欲は、あますところなく満たされるわけにはまいりません。(「欲」に当たるのはBegehrenであり、begehren〈欲しがる〉の名詞形で、言うならば、もよおしの嵩じたかたち、ないし必要のアクテイブなかたちです。)
しかし、だからといって、糧をとりこむの楽の量が減るわけではありません。その楽は糧への欲が満たされるところにおいて、それなりにありあわせます。ただし、エコロジカルなバランスが崩れていなければですが。(「生きる」「生存」「生命」に当たるのはLebenであり、leben〈生きる〉の名詞形です。)
かたや、減りもすれば増えもするのは、楽の値、言い換えれば、必要(ないし欲)に比しての楽の量の割り合いという、まさに人の考えるところです。すなわち、人の考えるところとして、楽の値は、生きるに要する糧を分母とし、糧を得るによる楽の量を分子とする分数で出てきますし、分母と分子がぴたりと同じであれば一となり、分母が小さくなるか、分子が大きくなるにおいて増し、分母が大きくなるか、分子が小さくなるにおいて減ります。しかし、楽の値は、分子、すなわち糧を得るによる楽の量がいささかでもあるかぎり、ゼロにはなりません。
はたして、つねづねにひもじさをかかえて生きる人にとり、なんとか得られる僅かな糧による楽の値は、たっぷりと得られる糧によっての楽よりも小さいですが、しかし、ゼロではありませんし、その僅かに得られる糧が、そのひもじさをかかえて生きる人にとっては、まさしくありがたいものではいないでしょうか。
また、「食物連鎖」のなかで糧となる生き物の苦もさることながら、どうにかこうにか糧を得る生き物の楽の値も、糧となる生き物が減り、糧を得ようとする生き物が増すほどに僅かになりますが、しかし、ゼロではありませんし、そのように、まさに考える人にとっては、その僅かな値の楽のもとでどうにかこうにか命をつなぐ生き物というものも、まこといとしくはないでしょうか。ついでに言い添えますが、「生存競争」とはいっても、生き物という生き物が四六時中競争しているわけではありませんし、また「弱肉強食」とはいっても、なるほど海を泳ぐ鰯や鯵は鰤や鮪(イワシやアジはブリやマグロ)に食べられますが、しかし野山に棲む猪や熊に食べられることはありません。そして、鰯や鯵、鰤や鮪、猪や熊のいずれをも食べることができるのは、人ぐらいなものです。
さらにまた、生きるの楽の値が動くのは、さながら手形の価値が変動する、つまり額面よりも高くなったり安くなったりするごとくです。しかし、まさに「世のこと」という観点からは、言い換えれば、まぎれなく考えるからは、経済においても思惑、投機にとどまらず、生きるの現実(生命の実体)に沿った考えがありありときわだちます。そして、まさにいまは、環境、資源というものについても、労働、雇用ということについても、そのような考え、言うならば、生きとし生けるものの快の値の僅かさ、切実さといった情の通った考え、生きるの楽をもたらすもののありがたさ、いとおしさといった感じを湛えた考えが、ますますもって欠かせなくなりつつありはしないでしょうか。(なお「まぎれなく考えるdas reine Denken」については、ことに五の章を見てください。)
とにかく、生きるの楽の値は、二つのフアクターによって定まります。ひとつに、楽の量であり、もうひとつに、生きるにとっての必要をどういうスパンで括りとるか、言い換えれば、もよおしが強く、しぶといか、弱く、一時かぎりであるかです。(それにつけても、いまの商品の多くは、なんとも刹那的な欲をかきたてることでしょうか。青臭いことを言うようですが、もっと青臭く言うと、刹那的な欲を書き立てないと商売がなりたたないのは、なぜなのでしょうか。)
三十五の段です。
わたしたちの生きるの満たされない求めが、満たされた欲や楽しい時へと影を落としもしよう。しかし、人は快の情のありありときわだつ値について語ることもできよう。その値は、快がわたしたちの欲の粘りと強さとのかかわりで小さいほどに僅かである。
満たされないことをかかえていると、食事をしても箸がなかなかすすまなかったりします。それはわたしが弱気なときです。逆にまた、満たされないことをかかえていればこそ、せめて食事ぐらいはおいしくとりたいと奮い立ったりもします。それはわたしが強気なときです。とにもかくにも、わたしは快を感じるばかりでなく、欲(ないし意欲)の度合いとのかかわりで、快の値を定めているものです。そして、快の値は小さいほどに、快の対象のありがたさ、いとしさをきわだたせます。はたして、その定めるは、はたまた、そのありがたさ、いとしさがきわだつのは、いかがでしょう、まぎれもなく考えるからでなくしてどこからでしょうか。(「ありありときわだつ」に当たるのはgegenwärtigであり、gegen〈対する〉wärtig〈向きの〉というつくりで、「向き合うところの、当面の、現在の」といった意です。なお「現在」は「一時」と同じくスパンが長くも短くもありえます。すなわち「粘り」に当たるのはDauerであり、「継続、引き続き、持続、持ちこたえ、期間」といった意です。)
三十六の段です。
わたしたちにとってまるまるの値を有するのは、わたしたちの欲に粘りと度合いにおいて見合う快の量である。わたしたちの欲に対して小さな快の量が快の値を減らし、大きな快が求められていないありあまりを生みだす。そのありあまりが快と感覚されるのは、わたしたちが楽しみつつ、欲を嵩じさせることができるかぎりにおいてである。わたしたちが増しつつある快と、求めを嵩じさせつつ歩みをともにすることができないなら、快が不快になりかわる。ふだんならわたしたちを満ち足らせよう対象が、わたしたちが欲していないのに押し寄せて、わたしたちはそれに苦しむ。それもこのことの証のひとつである。すなわち、快がわたしたちにとって値を有するのは、わたしたちが快を欲に沿って計ることができるかぎりにおいてである。心地良い情のありあまりは、苦に転じる。わたしたちはそのことをことに、それなりの快への求めがはなはだ僅かな人において見てとることができよう。糧へのもよおしが鈍っている人にとっては、食べることがえてして不快になる。そのことからも、このことが出てこよう。すなわち、欲が快の値のメーターである。
たとえばですが、かつて(わたしが中学生のころ)、ある映画(たぶん『世界残酷物語』という、いまから思えば悪趣味が売りの映画)のワンシーンで、人が生まれてから老いて死ぬまでに要する糧として、牛や豚の肉がずらりと天井から吊り下げられ、長々とつづく台の上にさまざまなパンが山と積まれ、ミルクやチーズや野菜にしても半端ではない量を一挙に見せられましたが、一気に食欲が吹き飛びました。言ってみるなら、そんなに食べなきゃならないの?!というショックです。その後もしばらくのあいだは、食事のときなどにそのシーンがちらついて、なんだかおかしな気持ちなったものです。そのこともまた、このことの証でしょう。すなわち、欲(意欲)が快の値の物指しです。
逆にまた、たまに巡り会う僅かばかりの雲丹(南米のチリ産だったりします)の、そのまた一切れを口にするときのえもいわれない味わいは、二口目、三口目の比ではありません。たびたびわたくしごとですみません、海育ちで子どものころは食べたいなら食べたいだけ食べて満たされていましたし、それにも増して、みずから海にもぐって採ることができるということのほうに喜びを見いだしていたせいもありますが、それに加えて、このごろは年のせいでしょうか、その一口は、強いて言ってみるなら、ふるさとのむかしがしみじみとよみがえってくるといった感じであり、つい、その、まあ、ノスタルジックな感じのほうに肩入れしがちで、そのぶん、目の前の雲丹につづけて箸を出すよりも、つくづくといとおしく眺めていたりもしています。やがては眺めるだけ、いや想い出すだけで満たされるようになるのか、それとも一口目の味わいを求めてうろつくのか、それは分かりませんが、とにかくそのこともまた、このことの証でしょう。すなわち、楽はもよおし(必要)あってのものであり、快は生きる(生命)あってのものです。
ここまで、ちょっと気になっていたことばがあるので、念のため辞書を引いてみました。「いとしい」は「いとほしい」の約だそうで、「ふびんである」「かわいい」という解が出ています。さらに古語辞典を引くと、「いとほし」は「イトヒ(厭)と同根。弱い者、劣った者を見て、辛く目をそむけたい気持ちになるのが原義」とあり、「困る」「見ていて辛い」「いじらしい」「かわいそうだ」「かわいい」といった意があげられています。さらにまた「いと」を見ると、「極限、頂点を意味するイタの母音交替形」とあって、「非常に、ひどく」「全く、ほんとうに」「(打消を伴って)たいして」というように解されています。
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さて、この回のお終いには、こんなことばを引くことにします。
命は悲しいものなのだぞ。
(宮沢賢治『雁の童子』)
生きてゐますことはこんなに切なくうれしいものですのに。
(草野心平『聾のるりる』)