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略伝自由の哲学第十三章 f

 この回は十三の章(「生きるの値~ぺシミズムとオプチミズム」)の四十三の段からです。

 

 ペシミズムの言い立て、すなわち世には快より不快のほうが多くありあわせるということが、かりに正しいとしても、それが欲するに影響することはあるまい。そもそも、生き物はなおも残っている快を求めて勤しむ。苦が喜びを上回るという経験としての証は、なるほど、生きるの値を快の上澄みに視る哲学の方向(幸福主義)に見込みのないことを示すには適うだろうが、しかし、欲するを総じて非理性的であるとするには適うまい。そもそも、欲するが繰り出すのは、快の上澄みに向かってではなく、不快を差し引いた後になおも残っている快の量に向かってである。その量はなおも勤しんで得るに値する目標でありつづける。

 

 ここまでに見てきたことを、ちょっと振り返ります。生きるの目的、もしくはなんのために生きるのかという問い(十一の章)と、生きるの値、もしくは生きるは生きるに値するのかという問いは、いわばひとつの対であり、いついつにも密接にかかわりあっています(13-aの回)。

 そして、生きるの値は、生きるにおいで快と不快のどちらが上回るかという、快と不快の量の差し引き勘定によってはじきだされもします。つまり、その値は快が上回るほどに高く、下回るほどに低くなるということになります(13-b,13-c)。

 しかし、快にも値があります。その値は欲するのほど(強さと引き続く長さ)を分母とし、欲して勤しむによって得られる快のほどを分子とする割算によって出てきます。そして、その値は小さいほどにいとしくなります(13-d)。

 というのも、欲して勤しむは、それなりの不快を招きはしますが、なおかつ得られる快への望みがいささかでもあるうちは、不快をものともせずに、あるいは不快に耐えながらであっても、もちこたえられるからです(13-e)。

 その意味において、欲するは快と不快の差し引き勘定には左右されませんし、また、やみくもでもありません。そもそも、いうところの望みは、まさに欲する人の考えるから、もしくは理性から兆す生きた考え(悟り)にほかなりません。(「上澄み」に当たるのはüberschußで、Über(上へと)schuß(抜きん出るところ)というつくりで、二の章の「ものごとの上澄み」と応じ合います。なお「幸福主義Eudämonismus」については『哲学事典』にこうあります。「倫理の究極目的、行為の基準を幸福におく説。この主義の典型的代表者はアリストテレス。かれは幸福および最高善を精神のよき活動、よき行為にもとづくものであるとした。近代においては功利主義がこの説に属する・・・前者は個人主義的であり(アリストテレスにとって国家の構成は人間の福祉に必須のものであったにもかかわらず)、後者は利他主義的であり、公衆的であった。」さらに「快楽主義Hedonismus」として「快楽を行動の動機および目的、あるいは道徳の基礎および目的とし、道徳律をその手段となす説。幸福主義にふくまれる」とあります。)

 四十四の段です。

 

 人はペシミズムを駁そうとするのに、世において快か不快の上回りをはじきだすことはできないと言い立てることをもってする。いちいちの勘定ができるということは、勘定に入れるもろもろを大きさに沿って比べることができるということに基づく。さて、どの不快も、どの快も、定かな大きさ(強さと引き続く長さ)を有する。また趣の異なる快の感覚のかずかずをも、わたしたちはその大きさに沿って、少なくても見積もりつつ比べることができる。わたしたちは、いいタバコのほうが、あるいは、いい洒落のほうが、わたしたちをより楽しませるのを知っている。さまざまな種類の快と不快を、大きさに沿って比ぺることができるということに対しては、ものいいのつけようがなかろう。そして、世においで快か不快の上回りを定めることを、みずからの課題とする研究者は、どこまでも真っ当な前提から発している。人はペシミスティックな結果の間違いを言い立てることはできるが、しかし、快と不快の量を科学的に見積もることができること、および快の決算の定かさを疑ってはなるまい。しかし、その勘定の結果から、人の欲するにとって、なにがしかのことが出てくるというように言い立てるとしたら、正しくない。わたしたちがわたしたちのすることの値を、現実的に、快か不快のどちらが上回るかに応じて決める場合というのは、わたしたちのするの目指す対象がなんでもいい場合である。わたしが仕事のあとで、ゲームなり、軽いおしゃべりなりで楽しもう、その目的のためにすることは、なんでもいいというときならば、なにをしたら快の上回りが最も大きいかというように問うだろう。そして、なにかをして、秤が不快の側に傾いたなら、とにかく、それをするのを止めるだろう。子どもにオモチャを買ってあげようというときならば、選ぶにさいして、なにがいちばん喜んでもらえるかを、よく考えよう。その他の場合という場合において、わたしたちがみずからを定めるのは、もっぱら快の勘定に沿ってではない。

 

 すでに見たとおり、たとえば喜びの快も糠喜びの快も、また三ツ星フレンチによる快もB級グルメによる快も、まさしく快であり、感覚されるところであり、それなりの大きさをもつことに変わりはありません。すなわち、わたしたちは快の感覚をそれとしてありていに、もしくは客として迎えることができます。そもそも、理性は外のものごとと「客観的」に向き合うことで科学を生みだしますが、同じく内なるものごとを客として迎え、見積もり、分かち、結び合わせることからも科学を生みだすことができます。もちろん、どちらの科学にもその手順の不手際によって間違いが生じることはありますが、その間違いは他でもなく手順の落ち度であって、メソッドそのものの落ち度ではありません。(なお『哲学事典』には「量的快楽説」として「快楽は質的差異を有せず量的差があるだけである。ベンサムはこれを前提として快楽計算を行ない道徳に適用した」とあり、また「質的快楽主義」として「快楽に量的差のみならず質的差異を認め、優位高度な快を求むべきであるとする説。・・・快楽のほかに価値の尺度を考えなければならないからこの説はおのずから快楽主義から離れていく(H.シジウィック)」とあります。)

 しかし、そのような快と不快の見積もりと差し引きによる「決算」からどういう結果が出てこようとも、それは人の欲するを左右しません。たとえば、ホルモンのおいしさを知っている人は、あいかわらずそれを欲するでしょうし、フォアグラのおいしさを知っている人も、あいかわらずそれを欲するでしょう。それどころか、ホルモンヘの欲はフォアグラでは満たされません。ただひとつだけ、いうところの結果に左右されるのは、快の上回りを得たいという情と思惑からの欲するです。たとえばですが、とにかくおしいしものであれば、ホルモンでもフォアグラでもかまわないというような場合です。(なお『哲学事典』には「心理的快楽説」として「人間は心理上、必然的に快楽を究極、最大の追求対象とする。それゆえ人生の目的は快楽にあるとする説(ホッブス、ベンサム)」とあり、また「直覚的快楽説」として「快楽の追求は心理的事実であるよりも、より根源的には実践理性の直覚によってとらえられる。道徳はこのような実践理性が直覚する公正の原理にもとづくべきであるとする説(H.シジウィック)」とあります。)

 四十五の段です。

 

 すなわち、ペシミスティックな倫理学者が、快よりも不快のほうが量において多くありあわせるという証によって、文化の仕事にわたくしなく身を捧げるための土壌を整えるという見解をとるにおいては、人の欲するが、その性質上、その知によっては影響されないということを考えていない。人が勤しむのは、困難という困難を乗り越えた後にありうる快のほどを目指してである。その満ち足りヘの望みが、人のすることの基である。ひとりひとりの人の仕事とまるごとの文化の仕事は、その望みから湧きだす。ペシミスティックな倫理学は、人に対して、幸せを追い求めても無駄であると言わねばならないと信じる。そして、それは人を人のそもそもの課題に向かわせるためである。しかし、その、人の行ないの課題は、ほかでもなく、具体的で、自然に沿った、精神のもよおしであり、そして、それを満たすことは、そこに降りかかる不快に抗してなされる。すなわち、ペシミズムが絶やそうとする、幸せの追い求めというのは、まったくもってありもしないことである。人が果たすべく有する課題を果たすのは、みずからというものを現実的に知り、みずからというものの力によって果たそうと欲するからである。ペシミスティックな倫理学が言い立てるところ、人がみずからの生きるの課題として知ることに、いよいよ身を尽くすことができるのは、快を求めて勤しむことを諦めるにおいてである。しかし、倫理学が生きるの課題として考えることができるのは、人の欲が求める満ち足りを現実的に得るということと、人の行ないの理想を叶えるということの他にはあるまい。倫理学は、その、人が欲しがるところを叶えるによっての快を、人から取り上げることはできまい。ペシミストが、快を求めて勤しむことはまかりならない、そもそも、あなたは快を得ることができない、あなたがみずからの課題として知るところを求めて勤しむべし、と言うにおいては、こう言い返すことができる。すなわち、それが人の流儀である、そして、人はただに幸せを求めて勤しむというのは、迷い道をさまよう哲学によるでっちあげである。人はみずからというものの欲を満たすことを求めて勤しみ、そして、抽象的な「幸せ」ではなく、その勤しみの具体的な対象を目に据える。そして、それを叶えることが、ひとつの快である。ペシミスティックな倫理学が要求すること、すなわち、快ではなく、あなたがみずからの課題として知ることを果たすべく勤しむということは、人がみずからというものに沿って欲することに当て嵌まる。人は哲学によって引っくり返してもらうにはおよばない。人は人としての行ないをするために、みずからの自然を捨て去るにはおよばない。人としての行ないは、ふさわしいと知った目標を求めて勤しむことのうちにあり、その目標に従うことのうちにあり、それに結びついてくる不快が、それへの欲を萎えさせないかぎり、人というもののうちにある。そして、それがおよそ現実的に欲するということのことたるところである。倫理学は快を求めての勤しみという勤しみを絶やし、血の通わない抽象的なイデーが、生きるの楽への憧れを迎えないままで主権をとることができるようにすることに基づくのではなく、強い、イデーの悟りに支えられた欲する、目標への道がたとえ茨に満ちた道であっても、その目標に行きつこうという欲するに基づく。

 

 世には不快が決を上回る、よって、快を求めるのは無駄である、よって、人の道はみずからの欲をす棄て去り、世のためのことに身を捧げることであるといった、どこかしら上から目線の、説教臭く、血の通わない言い草は、人の快にまつわる思惑と情には響いても、人の欲するには響きません。(なお『哲学事典』には「快楽主義的逆説」として、「快楽を人生の目的とし意識的に追求すると、人は多くの困難にであわなければならない。その苦痛を避けるにはいっさいの快楽を放棄するほかはない。かかる快楽の放棄においてこそ真の快楽が得られるとする説」とあります。)

 そもそものこと、人は生きるにおいて、具体的になにかを欲し、そのなにかを得るにおいて、快を感じます。人が勤しむのは、その快への望みをもって、降りかかる不快に抗しながらです。そして、人の文化は、ひとりひとりの人の、そのような勤しみによって生まれ、繰り出し、栄えます。(なお『哲学事典』には「個人的快楽説」として「快楽には普遍妥当性なく主観性があるのみである。したがつて主観的快楽のみが意志、行為を決定する動機となる。善とは各個人の快楽にほかならない(キュレネ学派、エピクロス学派、デモクリトス、エルヴェシウス)」とあり、また「公衆的快楽説」として「環境のいかんにかかわらず各個人は幸福追求において平等の権利をもつ。それゆえわれわれの行為は最大多数の最大幸福を目的とすべきであるという説(ベンサム、ミル)」とあります。)

 すなわち、人は人として振る舞うために、みずからの欲も、みずからにとっての快も棄て去るにはおよびません(それに、欲、ないし、もよおしは宥めたり、抑えたり、紛わしたりすることはできても、棄て去ることはできないものですし、快、ないし楽、ないし幸せ、ないし福は、あえて求めはしなくても、むこうからやってくることがあります)。上から目線(ペシミズムの哲学)が人の行ない(倫理)として求めることは、下から目線(欲するの観点)にとっては、すでに行なわれていることです。すなわち人の道は、まさにみずからのおのずからなもよおしをリアルに知る(悟る)ことであり、満たすに値すると知ったもよおしを満たそうと勤しむことのほかではありません。(なお「悟りIntuition」については、ことに五の章および九の章を見てください。)

 

 

やは肌のあつき血汐にふれも見で

さびしからずや道を説く君   

晶子