· 

略伝自由の哲学第十三章 b

 前の回から十三の章に入り、オプチミズムとペシミズムということ、または、ちょっと変な言いかたかもしれませんが、生きることは生きるに値するかどうか、ないし、いまさらなんなんだという人がいるかもしれませんが、生きがいというのはイリュージョンかどうかという問いに取り組んでいます。この回はショーペンハウアーという、ひとりの「現代的な」人の言い立てること、すなわち「世の基は闇雲の欲りであり、欲りは苦の源であり、よって、生きることは苦である」というペシミズムを受けるかたちで、こういう論が繰り広げられます。

 すなわち、十の段です。

 

 満ち足りを求めて勤しむことは、生きるの働きがさらなる生きるの内容をとらえていくことである。あるものが腹を空かしている、つまりは腹の足しを求めて勤しむのは、そのもののオーガニックなファンクションがさらに繰り出すように、糧というかたちで新たな生きるの内容が供されることを求めるにおいてである。名誉のために勤しむことは、人がみずからのすること、および諦めることを、いよいよ外から認めてもらえるにおいて値に満ちると見なすことのうちにある。知ろうとして勤しむことが生じるのは、人が聴く、視るなどができる世に対して、その世をとらえていないゆえに、なにかを欠くにおいてである。勤しむことが満たされて、その勤しむひとりの人において快が生じ、満たされなくて不快が生じる。そこで重きをなすのは、このことを見ることである。すなわち、快、不快は、わたしの勤しむことが満たされるかどうかに懸かる。勤しむことそのことは、けっして不快ではありえない。すなわち、勤しむことが満たされるその一時、ただちに新たに勤しむことがはじまるということが明らかになるとしても、わたしはこう言ってはなるまい。すなわち、快が不快を生みだしている、なぜなら、いかなるありようの下であれ享受がさらなる享受への欲、あるいは新たな快への欲を生みだすからであるとか。いよいよ、その欲を満たすことができないという事態に出くわすにおいて、わたしは不快を託(かこ)つことができる。たとえ、わたしのうちに生きられた享受が、さらに大きな、あるいは、さらに洗練されだ快への求めを生みだすにおいてさえ、わたしがはじめの快によって生みだされた不快を託つことができるのは、いよいよそのさらに大きな、あるいはさらに洗練された快を生きるための手立てが功を奏していない、その一時である。ただ、自然の法則として享受に不快が続くにおいて、たとえば性の享受において女性がお産の苦しみと子育ての労によって不快をかかえるというような場合にのみ、わたしは享受を苦の生みなし手と見なすことができる。もし、勤しむことがそれとして不快を呼び出すのであれば、勤しむのをさしひかえることには、快が伴うはずである。しかし、その逆が実際である。わたしたちの生きるの内容のうちに勤しむことが欠けるにおいて、つれづれが生じる。そして、そのつれづれが不快と結びついている。しかし、勤しむことは、おのずからながら、満たされるまでに長きにわたって続きもするし、さしあたりは満たされるという望みをもって満ち足りるゆえに、きっと、このことが認められよう。すなわち、不快は勤しむことそのことにはまつたくかかわりなく、もっぱら勤しむことが満たされないことにかかわる。すなわち、ショーペンハウアーは欲しがること、ないし勤しむことそのこと(欲りそのもの)を苦しみの源と見なすが、それはいかなるありようの下でも正しくない。

 

 まずは、ちょっと振り返ります。二の章くだりには、こういう件がありました。

 

 一重のなりたちをしていないのが、人というものである。人の求めるは、つねながら、世の惜しみなく与えるを上回る。要るということ(必要)は、自然がわたしたちに与えたが、そのうちのなにがしかを満たすということは、自然がわたしたちのする働きに任せる。たわわな恵みにわたしたちは与るも、なおたわわなのがわたしたちの欲りである。飽くなきはわたしたちの生まれつきと見える。その飽くなきのことさらなひとつの他ではなかろう、わたしたちの知ろうとするのつきあげは。

 

 わたしたちはおのずからにもろもろを欲します。衣食住はもとより、人から認めてもらうこと、あれこれを知ること、することの意味、生きることの値にいたるまで。そして、その欲りを満たすことは、これまたおのずからながら、わたしたちのする働きに任されています。さらに、欲り、ないし働きは、「求める」「欲しがる」「勤しむ」というように嵩じもします。そして、そのように嵩じることもまた、人というものが一重のなりたちをしていないことの徴です。(「求める」に当たるのはsuchenであり、「探す、企てる、試みる」といった意、「欲しがる」に当たるのはbegehrenであリ、「所望する、欲求する、黙望する」といった意で、「欲」とも訳してあります。そして「勤しむ」に当たるのはStrebenであり、「努める、励む、勉強する、ガリ勉する」といった意です。なお「欲する、欲りWollen, Wille」については、ことに5-d-2の回を見てください。)

 人がする働きをするのは、そもそものこと、人の生きるのうちに欲りが生じるからです。よって、たとえば「人は生きるために働く」というのは、その実、イリージョンに他なりません。さらに、いうところの「するtun」「する働きTätigkeit」は、いわゆる「お勤め」「雇われてすること」に限らず、「考える」「話す」「立つ」までをも含めて、人のすることを総じて指します。たとえばまた「仕事、労働Arbeit」「稼ぐ、儲けるerwerben」といったことばも、ここでは「お金になる」「人に認められる」といったことによって狭く限られた意味においてではなく、まさに広い意味においてとらえられています。とにかく、わたしたちは生きているかぎり、なにかを欲します。そして、そのなにかには、ただに見るだけでは得られない、考えるによってこそとらえられる、ものごとのなりたち、ないし法則、および、ただに考えるだけでは得られない、生きるにより、するによってこそ確かめられる、することの、ないし、生きることの値、意義、意味も含まれます。そして、すること、生きることについて、値、意義、意味が云々されることもまた、人というものが一重のなりたちをしていないことの徴です。

 求め、欲しがり、勤しむこと、もしくは探し、企て、試すこと、ひとことで欲してすることと呼ばせていただきますが、それが叶って、快が生じ、叶わなくて、不快が生じます。なるほど、欲するは飽くことがなく、快は癖ないし病みつきになることがあっても、欲してすることそのことは不快を生みませんし、とそのことは不快を生みませんし、とえば、酒を飲む一時の快が二日酔いの不快を招くことになるのは、飲み過ぎることによってであり、飲むことそのことによってではありません。それどころか、場合によっては二日酔いの不快などなんのその、重々わかっていながらも、ついつい、あるいは、やけくそで飲む一時の快に酔いしれるということさえなされたりもします。(「満ち足り」に当たるのはBefriedigungであり、Friede〈平和、平穏〉から来て、「叶える、鎮め、癒す」の意です。「満たす」に当たるのはerfüllenであり、voll〈満々とした〉から来て、「具足、成就、履行」といった意です。)

 なににせよ欲してすることは不快を生みません。逆に、欲してすることがありあわせない一時、すなわち、退屈な、身をもてあます一時が不快です。(「つれづれ」に当たるのはLangweileであり、Lang〈長い〉weile〈あいだ〉というつくりで、「退屈」の意です。)

 すなわち、まさに見てとるかぎり、ショーペンハウアーが言い立てるように、欲してすること、ないし生きることがそれとして苦であるなどとは言い立てることができません。(ついでですが、「いまの」人のひとりであるショーペンハウアーの言い立てるところは、いまから二千数百年前のブッダの言うところと見かけの上で似かよいますが、しかし、その二人の説く、苦を脱する道にはすこぶる大きな違いがあります。ショーペンハウアーは「欲するを殺ぐこと」を勧めますが、ブッダはたとえば「八正道」を掲げます。そもそも、ブッダにとって「この世はイリュージョン(マヤ)」ですが、ショーペンハウアーにとって「世の基は闇雲の欲り」です。)

 十一の段です。

 

 まことは、その逆が正しい。勤しむこと(欲しがること)そのことは喜びを生む。はるかに遠くても、強く焦がれる目標への望みがかもす味わいの享受を、だれか知らない人があるだろうか。その喜びは仕事の道連れであり、その仕事の稔りがいよいよ授かるのは、さきざきのことであっていい。その快は目標に行き着くこととにはまったく左右されない。やがて目標に行き着くにおいては、勤しむことの快に、満たされることの快が新たなものとして加わる。しかし、満たされない目標による不快には、またはきちがえていた望みについての不快も加わって、つまるところ、満たされないことでの不快は満たされることでの快よりも大きくなると言う人には、こう言い返すことができる。すなわち、その逆の場合もありうる。満たされずに欲しがっていた時における味わいの享受を振り返ってみることで、満たされないことによる不快が和らぐことも、同じくしばしばある。望みが潰えた一時に、やることはやったのだとあらわに言う人は、右の言い立てが正しいことの、ひとつの証左である。力に応じて最善を欲したという、労いとなる情を見過ごすのは、いちいちの満たされない欲に、こういう言い立てを結びつける人である。すなわち、満たされることでの喜びが得られなかったばかりか、欲そのものの享受も損なわれているとか。

 

 欲してすることは、不快を生まないばかりか、逆に快を生みます。わたしたちは欲してすることの快を享けるものであり、楽しむものでもあります。そして、欲してすることは、叶うという望みがあるかぎり、どこまでももちこたえます。(「享受」または「味わいの享受」に当たるのはGenuißであり、genieißen〈享ける、楽しむ、ふける〉の名詞形です。「望み」に当たるのはHoffnungであり、いわば「喜ばしい見込み」の意です。)

 その意味において、欲りの飽くなきしぶとさは、することのための粘り強い支えであリ、一度はもとより、度重ねてすることにおける快、言い換えれば、その都度の快はもとよリ、のちのちに引き続く快の思いは、ことが叶うにいたるまでの道筋に伴う喜ばしい道連れです。(「一時に当たるのはAugenblickおよびMomentであり、その長さは他でもなく欲してすることのありなしに応じて異なリます。たとえば一時間も果てしなく長かったり、一年もあっという間であったり、・・・。」

 よしんば、叶うという望みが絶たれて、悲しみの不快に見舞われるとしても、そこまでのすることの快までが遡ってオジャンになるわけではありません。その快の思いは、それとしで快であり、望みが絶たれた悲しみ、あるいは望みをしていたことの悔いをも和らげもしますし、それまでのことをきっぱりと諦めて、さらに生きつづけるための力をもたらしもします。そして、そのこともまた、人というものが一重のなリたちをしていないことの徴です。(「労いとなる」に当たるのは、beseligendであり、selig〈恵まれた〉から来て、「喜びを与える、祝福する」といった意です。ついでに「諦める」はもともと「明きらめる」だそうです。)

 十二の段です。

 

 欲が満たされで快が、満たされなくて不快が呼び起こされる。そこから、こう決めつけてはなるまい。すなわち、快は欲が満たされることであり、不快は欲が満たされないことであるとか。ひとりのものに生じる快にしろ不快にしろ、欲の結果ではないこともありうる。欲が先立ってはいない病気も不快である。病気は健康への満たされない欲であると言い立てようと欲する人は、病気になりたくないという、自ずから明らかで、意識に昇らせてはいない願いを、あからさまな欲と見なす過ちをおかしていよう。ある人が、いるとは予感さえしていなかった金持ちの親戚から遺産を相続するという場合、その事実は先立つ欲のなかったその人を快で満たす。

 

 快と不快、喜びと悲しみ、楽と苦がひとりの人に生じるのは、かならずしもなにかを欲していることが叶う叶わないによるのみではありません。すなわち求めてもいないのに、欲しがってもいないのに、勤しんでもいないのに、むこうから舞い込んでくるなにかによる場合もあります。

 なにを欲してするかには、ひとりの人へと開けてくる望みよるところが大いにありますが、その舞い込んでくるなにかも、そのひとりがあからさまに願ってはいないものの、ほかのだれでもまなく、そのひとりへと舞い込みます。はたして、そのこともまた人というものが一重のなりたちをしてないことの徴ではないでしょうか。そもそも、ひとりの人の意識の深みに当たり前のこととして潜む願い、ひとりの人へとおのずからに開けてくる望み、その当たり前さ、そのおのずからさというのも、ことにそのひとりがあってのことではありませんか。(「願い」に当たるのはWunschであり、gewinnen〈・・・ヘと至る〉に通じて、「欲求、請求、憧憬」といった意です。なお、希望といい、願望というように、願い(希い)と望みは、しばしば一括りにされますが、しかし、つまびらかに見てとるなら、望みは外に重なって開け、願いは内に重なって萌します。)

 はたまた、ひとリの人を見舞う禍い、ひとりの人に降りかかる厄介というのも、なるほど、当たり前でもなければ、自ずから明らかでもありませんが、しかし、見舞う、降りかかるにかけては、望みが外に重なって開け、願いが内に重なって萌すのと同じく、「むこうからひとりへ」ではないでしょうか。

 十三の段です。

 

 すなわち、快の側が上回るのか、不快の側が上回るのかを調べようと欲する人は、欲での快、欲を満たすでの快、求めて勤しむことなしに舞い込む快を勘定にいれることを要する。帳簿のもう一方の側に載るのは、つれづれからの不快、満たされない勤しみからの不快、欲しがらないのに押し寄せる不快である。お終いの項には、また、押し付けられたままで、みずからで選んではいない仕事が引き起こす不快も属する。

 

 まとめれば右のとおり、快も不快も三つの節に分かれします。はたして、そのこともまた人というものが一重のなりたちをしていないことの徴ではありませんか。はたまた、その快と不快を貸借対照表の貸し方、借り方のように比べ合わせて、差し引きしてみようとする向きをもつのも、現代的な人の徴ではありませんか。そして、その表の貸し方と借り方の三つの項にシンプルな名目をつけるとしたら、「こころ」「からだ」「精神(意識)」というのがふさわしくないでしょうか。(「帳簿」に当たるのはKontobuchであり、「出納帳」の意です。いったい、いまのような簿記や家計簿が生まれたのは、いつごろからのことでしょうか。)

 それでは、次の回をお楽し・み・・に・・・