ルドルフ・シュタイナー著『自由の哲学』(1894)を身近に、親しく巡るうとする、この略伝は、これまでの機関誌『月刊アントロポゾフィ一』の2000年9月号にはじまり、月々に回を重ねて、ようやく十二の章(タイトルは「モラルのファンタジー」、サブタイトルは「ダーウィニズムと人の行ない」です)の終わりにまで漕ぎ着けました。そして、ここに改まった機関誌『シュタイナーtoday』の、このはじめの号から取り上げていくのは、十三の章であり、また十四ほどある章のうちで最も長い章でもあります。タイトルは「生きるの値」、サブタイトルは「ペシミズムとオプチミズム」です。ちなみに、サブタイトルが付されているのは、十一から十四までの、「自由の考えがどのようにして現実に仕立ててられていくのか(9-d-1の回)」ということを取り立てる四つの章です。
では、まずーの段です。
生きるの目的、ないし定めについての問い(十一の章)と対をなすのが、生きるの値についての問いである。その重なりにおいて、わたしたちは二つの相反する見解に出会い、その二つのあいだにおいて、その二つをとりなす、ありとあらゆる考えうる試みに出会う。ひとつの見解はこう言う。世は考えうるかぎり、ありうるかぎりの最も善き世であり、世のうちに生きること、振る舞うことは、見積もりきれない値をもつ宝である。すべてはハーモニックに、かつ目的に則して働き合っており、誉め讃えるに値する。悪や禍いと見えるところも、さらに高い立場からは善きところと知られる。そもそも、そう見えるところは善の、福をもたらす対であり、それが善に対してきわだつにおいて、それをわたしたちはなおさら善きものと見積もることができる。また、禍いにしても、まことは現実的なものでなく、ただ、わたしたちは福の少ないほどを禍いと感覚するだけである。禍いは善がありあわせないことであり、それとして意義を有するものではない。
さきに十一の章(タイトルは「世の目的と生きるの目的」、サブタイトルは「人の定め」です)において見てとったとおり、いまの人の、まさに見る立場からすると、目的という考えがリアルな意味を有するのは、人の振る舞いにおいてのみです。言い換えると、いまの人の多くは、世を見るにおいて、世の法則を見いだしますが、世の目的を見いだす人は、わたしの知るかぎり、それほどいません。(なお「見るbeobachten」については、ことに三の章を見てください。)
さらに、これまた先に見てとったとおりですが(ことに5-d-2の回)、意味(Sinn)は人が見いだすところであり、意義(Bedeutung)は人がわきまえるところであり、価値もしくは値(Wert)は人が感じるところです。ただ、その三つが、ふだんにおいては重なり合って一つです。
そして、目的と値は切っても切れないかかわりにあります。すなわち、人が目的を定めるのは、きっと、値に応じてであり、人が値を見積もるのは、きっと、目的に応じてです。(「見積もる」に当たるのはschätzenであり、Schatz〈宝、富、財〉から来て、「査定、評価、尊重」といった意です。また「宝」に当たるのはGutであり、gut〈善い、良い〉から来て、「善das Gute」に通じます。)
もちろん、その定めるも、その見積もるも、人のすることであり、その定めるがどのかぎりで自由のファクターであるのか、言い換えれば、まさに世においてひとりの人がひとりの人であることを可能にするのかは、すでに十一の章で見てとったとおりであり、その見積もるについては、これから見ていくことになります。(なお「ファクターFaktor」については、ことに八の章(タイトルは「生きるのファクター」です)を見てください。)さて、当の見解である「世はこよなく善いものであり、生きることは量りしれなく貴(とうと)いことである」ということに対しては、いまの人の多くがなにがしかのアンチバシ一を覚えるのではないでしょうか。(なお「福」はdas Wohlであり、wohl〈よく、まあまあ、そこそこ〉から来ます。それに対して「禍い」はdas übelであり、übel〈たちがわるい、いとわしい、気分がわるい〉から来ます。つまり、「善」と「悪」がどちらかというと客の側を引き立てるのに対して、「福」と「禍い」はどちらかというと主の側を引き立てます。)
そして、二の段です。
もうひとつの見解はこう言い立てる。生きるは痛みと惨めさに満ち、いずこであれ不快が快を、苦しみが喜びを凌ぐ。あるは重荷であり、あらざるは、いかなるありようの下(もと)でのあるよりも増(ま)しであろう。
先のとは逆に、こちらの見かたに対しては、多かれ少なかれシンパシ一を覚える人が多いのではないでしょうか、いまの人としては。しかし、たんにそうとばかりも言えません。つづけて読んでみてください。(「ある」はSeinであリ、sein〈ある〉という、英語のbeに当たる動詞を、そのまま名詞として用いたかたちです。そして「あらざる」はNichtseinであり、英語のnot-beで、not to beと同じ働きをします。また「ありよう」に当たるのはUmständeであり、um〈周りに〉stehen〈立つ〉から来て、「状態、事情、境遇」といった意です。なお、「ある」と「あらざる」がひとつの対であるのはもとより、「ある」と「(立つ)ありよう」が対をなすこと、「目的」と「値」が対をなすごとくです。」
三の段がこう続きます。
一つ目の見解、オプチミズムの主な代表として、わたしたちはシャフツベリとライプニッツを、二つ目の見解、ペシミズムの主な代表として、シヨーペンハウアーとエドゥアルト・フォン・ハルトマンを挙げることができよう。
ちなみに、シャフツベリは1671~1713、ライプニッツは1646~1716、かたやショーペンハウアーは1788~1860、ハルトマンは1842~1904に生きた人です。すなわち、前者の二人と後者の二人のあいだには、ほぼ一世紀ほどの隔たりがあります。
四の段です。
ライプニッツは言う。世は最も善きありようをしている。さらに善き世はありえない。そもそも、神は善く、賢い。善き神は最も善き世を創りなそうと欲する。賢い神は最も善き世を知っている。その神はそれをありとあらゆる駄目な世から分かつことができる。ただ、悪しき神、ないし賢くない神ならばこそ、駄目な世を最も善き世として創りなしもしよう。
ライプニッツにおいては神という、ありとあらゆるものを超え、ありとあらゆるものを創りなすもの、いわゆる全知全能で絶対的に善いものが、まだ、いささかなりものをいっています。(なお「善しgut」は「悪しböse」とも対しますし、「駄目Schlecht」とも対をなします。すなわち「よし」に「善」と「良」の字が当たるごとくです。が、いわゆる「神」がものをいっているところからすれば、「善」も「良」も、それなりに違いはあるものの、「よし」というひとつのことばで言うことができるでしょう。)
そして、五の段です。
その視点からはじめる人は、人としての振る舞いに、すんなりとそれなりの向きを前もって示すことができ、その人の振る舞いは、きっと、その向きを、世の最善にむけてみずからの最善を尽くすために拓く。人は神のおぼしめしをこそ探り究め、それに従って処することを要するようになる。人は神が世と人という種をもって意図するところを知っているなら、ふさわしいことをするようになる。そして、人は他の善にみずからの善を加えることに幸せを感じるようになる。オプチミスティックな立場からは、すなわち、生きることは生きるに値する。生きることは、きっと、わたしたちを、ともに働きつつかかわるように促す。
いささかではあっても神がものをいっているのを聞く人ならば、それをよく聞き取り、それをよく聞き分け、それによく聞き従うことによって、生きかたを仕立てることが善きことであり、幸せなこととなるでしょう。が、その人にとっては、自由ということよりも、恭順ということのほうが先立つでしょう。人にとって自由ということがさしせまった問いとなるのは、神がものをいわなくなることと歩みをともにしています。
さて、六の段です。
ショーペンハウアーにとっては、ことが異なる。かれは世の基を最も賢く、最も善きものでなく、闇雲のつきあげ、もしくは欲りと考える。けっして得られはしない満ち足りを求めての、終りなき勤しみ、弛みなき戦いが、欲りという欲りのおおもとの特徴である。そもそも、目指す目標に行き着けば、新たな必要が生じる。満ち足りがありうるのは、いつなりともほんの束の間である。その満ち足りを除く、わたしたちの生の内容のまるごとは、満たされないつきあげ、すなわち、満ち足りのなさであり、苦である。闇雲のつきあげがついに止めば、いちいちの内容が欠ける。果てしないつれづれがわたしたちのあるを満たす。それゆえ、相対的ながら最善なのは、内において願いと必要を抑えること、欲りを殺ぐことである。ショーペンハウアーのペシミズムは、なにもしないことへと導く。かれのいう人の行ないの目標は、ユニバーサルなものぐさである。
ただに見られる世、ただに覚えられる世は、「感覚の客の、ただなる、かかわりを欠いた寄せ集まり(四の章)」です。その客のいちいちは、てんでんばらばらであり、相対的であり、そこに絶対的なものはいささかもありあわせません。ショーペンハウアーのいう「闇雲の欲り」は、そのてんでんばらばらないちいちを突き動かしている力にほかなりません。しかも、その力はそもそもにおいて飽くことがなく、満ち足りることを知りません。その力が人において苦のもととなります。
しかし、まさに見るところ、欲りは世の元手のひとつにすぎませんし、欲するは人の生きるのファクターのひとつにすぎません。
それに、欲りを殺げといわれても、どうしたら殺げるでしょうか。たとえ引きこもってみても、なるほど、生の内容のいちいちを失って、つれづれを得はしますが、しかし、つれづれのさなかで欲りはいよいよ狂おしく募り、なおさら闇雲に堰を切ろうとうとするものです。
さらに、七の段です。
ハルトマンはさらにそもそもから異なる趣においてペシミズムを打ち立て、それを倫理学のために用いようとする。ハルトマンはわたしたちの時代が好んで勤しむことに従いつつ、みずからの世の観方を経験のうえに打ち立てようとする。かれは世に快と不快のどちらが上回るのかについて、生きることを見るところから解き明かそうとする。かれは人にとって善と見え、幸せと見えるものを、理性のまえに繰り出してみせつつ、満ち足りと思われるすべてが、詳らかに見遣るならば、イリュージョンであることを示す。健康、若さ、自由、穏やかな暮らし、愛(性の享受)、同情、友情および家庭、名誉心、名誉、名声、主であること、宗教の教え導き、科学および芸術への取り組み、彼岸の生への望み、文化の歩みにかかわること、それらにおいてわたしたちが幸せと満ち足りの源を有すると信じるとしたら、イリュジョンである。醒めて見てとるならば、いちいちの享受が世に快よりも多く禍いと惨めさをもたらす。二日酔いの心地悪さは酔いの心地良さよりも、つねに大きい。世において不快ははるかに上回る。人は、相対的ながら最も幸せな人であれ、惨めな生をもう一度生きようとする気があるかと訊かれたなら、ないと答えよう。さて、ハルトマンは世にイデー(知恵)がありあわせることを打ち消さず、イデーに闇雲のつきあげ(欲り)と同じ権利を認めるゆえ、そもそものものが世を創りなしていると思いなす。すなわち、かれは世の苦しみが賢い世の目的のうちに繰り出すとする。世というものの苦しみは、しかし、神の苦しみのほかではない。そもそも、世の生のまるごとは神の生とひとつである。すべてを知る賢いものは、しかし、そのものの目標を、ただ苦から解き放たれること、そして、ありとあらゆるあるが苦であるゆえに、あるから解き放たれることに視ることができるのみである。あるをはるかに善きあらざるへと導くこと、それが世の創りなしの目的である。世のプロセスは神の苦しみに対する弛まざる戦いであり、その戦いは、つまるところ、ありとあらゆるあるを絶やすことをもって終る。人の行ないの生は、すなわち、あるを絶やすことに与るようになる。神が世を創りなしたのは、世によってみずからを果てしない苦しみから解き放つためである。その苦しみは「いわば絶対者の痒い出来物のごとくであると見てとることができよう」。すなわち、それによって意識されない癒す力が内なる病から解き放たれる。その苦しみは「また苦しみを引き起こす吸い出し膏薬というように見てとることもできよう。すなわち、その膏薬がすべてでひとつのものにおのずから貼り付き、内なる苦しみをまずは外へと誘きだして、それから取り除ける。」人々は世の節々である。その節々において神が苦を被る。神がその節々を創りなしたのは、みずからの果てしない苦しみを散らすためである。わたしたちのひとりひとりが被る苦しみは、神の苦しみの果てしない海の、ただに一雫である。(ハルトマン『倫理意識の現象学』)
ハルトマンは、いわばものをいってはこない絶対者を、こちらから推し量りつつで、痒い出来物に膏薬を貼りつけて、その痛みに苦しんでいる、なんとも哀れな、かつまた、なんとも滑稽なものとして思い設けています。そして、そのような推し量り、思い設けのよりどころは、まさに見ることであるとともに、いわば冷たい理性をもって考えることです。すなわち、ハルトマンは世に快と不快のどちらが勝るかを見てとるのはもとより、快の多くはイリュージョンであるというように、いわば醒めた頭で考えています。(「思いなす」に当たるのはzumutenであり、zu〈向けて〉muten〈こころを起こす〉というつくりで、「(過剰に)要求する、期待する」といった意です。)
まさにその醒めた頭での考えをもとに推し量ればこそ、哀れで、滑稽な神が思い設けられますし、その思い設けに照らして、人の生きるべき道が次のように説かれます。
すなわち、八の段です。
人はこういう知をみずからに染み渡らせてしかるべきである。すなわち、ひとりにとっての満ち足りを追い求めるの(エゴイズム)は愚かなことであり、ひとえに神を救う世のプロセスにわたくしなく沿うことによって、みずからを捧げるという課題に導かれてしかるべきである。シヨーペンハウアーのペシミズムとは逆に、ハルトマンのそれはひとつの気高い課題に沿いつつ働くことへと、わたしたちを導く。
ハルトマンによるなら、人は快を求めて振る舞うのが愚かなことであるという醒めた知を胆に命じるべきであり、たとえ苦しかろうとも、世のことにわたくしなく仕えるべきであり、それが神を救うことになる、ということになります。
それは、なるほど、気高い考えではありますが、しかし、考え(イデ一)も世の元手のひとつにすぎませんし、考えるも生きるのファクターのひとつにすぎません。
そもそも、快と苦は、考えられる考えであるよりも、まずもって感じられる情です。すなわち、世には情という元手もあり、人には感じるという生きるのファクターもあります。
そして、九の段です。
しかし、経験のうえに打ち立てるということは、いかになされているだろか。
はたして、まさに見ること、まさに覚えることをもとにして、生きるの値はどのように見積もることができるでしょうか。言い換えれば、生き甲斐は、いまならでは、どのように経験されるでしょうか。それをこれから見ていくことになります。お楽しみに。