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略伝自由の哲学第十一章 a

 いよいよ十一の章に入ります。先立って九の章に告げられているとおり(9-d-1)、この章からは、いかにして、人が、自由を現実に仕立てていくか、言い換えれば、どのようにして、ひとりの人が、そのひとりたるところに沿うことができるようになるかが、見てとられます。その道のはじまりである、この章は、「世の目的と生きるの目的」というタイトルとともに、「人の定め」というサブタイ卜ルをもちます。まずーの段です。

 

 人であることの精神の生において、さまざまな流れがあるなかに、ひとつ、いうならば、目的という〈考え〉を、その〈考え〉が属さない分野において乗り越える流れを追うことができる。合目的性というのは現象の続きゆきにおける、ひとつの定かな趣である。合目的性ということが、まこと現実的なことであるのは、因と果のかかわり、すなわち、先立つことが後のことを定めるというかかわりとの対で、逆に、後のことが先のことに働きかけるにおいてこそである。それは、さしあたり、人の振る舞いにおいてこそ迎えられよう。人が振る舞いを仕立てるにおいて、その振る舞いは、人が先立って思うところであり、そして、人がその思いによって定まるとおりに振る舞うにいたる。後のこと、振る舞いが、思いの助けをもって、先のこと、振る舞いつつある人へと働きかける。その、思うということを経る回り道が、しかし、目的に適ったかかわりには、どこまでも欠かせないものである。

 

 雨降って地固まるといいますが、雨は地を固めるために降るというようにいう人は、もうほとんどいないでしょう。また、それが言えないのと同じように、牛の角は突くためにあるということも、言いようがありません(9-f-2)。それを言うためには、創造主の思し召しをじかに知っているとか、少なくても牛に、牛のこころづもりを、じかに語ってもらうとかが必要になります。それは、もはや見られるところ、覚えられるところに依って立つ科学の立場と相容れません。というよりも、いまの科学は、人が「・・・のため」という考えを退けるようになってくるとともに起こってきました。言い換えれば、造物主の思し召しや牛のこころづもりといった考えはもとより、考えそのものが、ものをいわなくなってくるにつれて起こってきました。なお、それについては、10-aの回を見てください。(「〈考え〉」に当たるのはBegriffであり、begreifen〈とらえる〉から来て、考えのかたちのひとつとして、いうならば「とらえられた考え」です。なお、それはふつう「概念」と訳されます(3-b)。「流れ」に当たるのはStrömungであり、strらmen〈流れる〉から来て、いわば「趨勢、潮流、思潮」といった意です。)

 そして、主と客というのが、そもそもにおいて、覚えられるところではなく、考えられるところであるように(四の章)、因と果という対も、そもそもにおいては、考えられる対です。さらに、「対」ということからして、そもそもにおいては考えるから見いだされるかかわりです。(「因」に当たるのはUrsacheであり、Ur〈おおもとの〉sache〈ことがら〉で、「原因、根拠、動機」といった意、「果」に当たるのはWirkungであり、wirke〈働く、働きかける〉から来て、「活動、作用、効果、結果」といった意です。4-a-2)

 さて、部屋の窓辺に置いてあるラベンダーの鉢植えの土が、ほどよく水を吸っています。それは、わたしが水をあげたからであり、鉢植えの生産者が土をいい塩梅につくったからです。わたしが水をあげるのも、生産者が土をつくったのも、すくなくても土に水をほどよく吸わせるためです。土が水をほどよく吸うようにという思いによって、わたしの水のあげかたも、現実的にそれなりのあげかたになりますし、生産者の土のつくりかたも、現実的にそれなりのつくりかたになります。が、雨の降りかた、地の固まりかたを、いかなるものの、いかなる思いによるのかという問いをもって見る人は、もはや、ほとんどいないことでしょう。もし、いたとしら、その人は、ほかの人にとって、非現実的な人に見えることでしょう。(「現実的」に当たるのはwirklichであり、wirken〈働く、働きかける〉から来て、wirk〈働き、働きかけが〉lich〈ある〉ことです。5-c-1)

 二の段です。

 

 プロセスは因と果に分かれるが、そのプロセスにおいて、覚えと〈考え〉を分かつことができる。因の覚えは、果の覚えに先立つ。因と果は、わたしたちの意識のうちにおいて、もし、わたしたちがそれに相応する〈考え〉をもって互いに結び合わせることができないとしたら、たんに隣り合ってあるままであろう。果の覚えは、つねに因の覚えに続くこととしてありうるのみである。果が因へとリアルな影響を及ぼすとしたら、それは〈考え〉というファクターによってこそありうることである。そもそも、果の覚えというファクターは、因の覚えというファクターに先立っては、まったくありあわせていない。花は根の目的である、つまり、花は根に影響を及ぼすと言い立てる人が、そう言い立てることができるのは、花についての、みずから考えるによって確かめるファクターによってこそである。花の覚えというファクターは、根の生じる時にはまだありあわせていない。目的に適ったかかわりには、しかし、たんに後のことと先のことの、イデーとしての、法則としてのかかわりが欠かせないばかりではなく、果の〈考え〉(法則)が、きっと、リアルに、覚えられるプロセスを通して、因に影響を及ぼす。〈考え〉から他のものへの、覚えられる影響を、わたしたちが見ることができるのは、しかし、人の振る舞いにおいてこそである。すなわち、そこにおいてのみである、目的という〈考え〉を宛てがうことができるのは。覚えられるところのみにものをいわせる、ナイーブな意識は ーくりかえし言うとおり一 イデーであるところのみが知られるところにも、覚えられるところを紛れ込ませようとする。その意識は、覚えられることにおいて、覚えられるかかわりをもとめる。あるいは、そのようなかかわりが見いだせない場合には、それを夢に描きながら持ち込む。主の振る舞いにおいてものをいう、目的という〈考え〉は、そのような夢に描かれるかかわりにとって、うってつけの元手である。ナイーブな人は、みずからがどのようにしてことを起こすかを知っているところから、自然も同じようにしているであろうと推し量る。その人は、紛れのないイデーとしての自然の法則において、視ることののできない力を視るばかりか、覚えられない、リアルな目的をも視る。人は道具を目的に応じて作る。まさにそのレシピに応じて、ナイーブな人は、創造者に生き物をつくらせる。まさしくおもむろに、その誤った、目的という〈考え〉が、科学から消え去りつつある。その〈考え〉が、哲学においては、いまなおすこぶる質の悪い力をふるっている。そこにおいては、世を余所にした世の目的や、人を余所にした定め(よってまた目的)といったことが問われるところとなる。

 

 わたしたちは、ひとつのプロセスの覚えを、因と果という考えをもってとらえます。そこから、ひとつのプロセスがふたつの節に分かれます。そもそも、ひとつのプロセスというのも、考えをもって括られるところです。雨降って地固まるにしても、いかがでしょうか。まずは、雨が降って、地がぬかむのが、ひとつのプロセスであり、ぬかるんだ地が、日と風によって固まるのが、もうひとつのプロセスですが、長い目でみれば、そのふたつのプロセスがひとつのプロセスであり、いうところの長い目は、いわば考えを見る目でもあります。その目からみれば、降る雨が因であり、固まる地が果です。そもそも、かかわりというかかわりは、考えるによって明らかになります(四の章)。ただなる覚えにとっては、降る雨と固まる地が、てんでにあるまでです。(「互いに」に当たるのはmiteinanderであり、einander〈それぞれが〉mit〈ともに〉というつくりで、いわば「かかわりあいのある」こと、「隣り合って」に当たるのはnebeneinanderであり、einander〈それぞれが〉neben〈傍に〉というつくりで、「かかわりあいのない」ことを指します。4-a-4)

 また、土のなかの種が、芽をだし、根をはり、葉をつけて、花を咲かせ、実をつけ、種を散らして増えます。種は子孫を増やすために、芽をだし、根をはり・・・といった言い方も耳にしますが、その「ため」というのは、きっと、「子孫を増やす」という考えをモットーに生きる人の頭から生みだされていることでしょう。とにかく、わたしたちの見て考えるかぎりは、種が芽をだし、根をはり、根をはることによって、芽がのび、芽がのびることによって・・・その一連のプロセスの結果、増えてゆくという、植物の育つプロセスと法則があるまででです。(「影響」に当たるのはEinfluißでありein〈入り込んで〉flieißen〈流れる〉の名詞形です。)

 しかし、植物を育てる人は、植物の育ちの法則を知っていればこそ、種を植え、水をやり、肥しをほどこし・・・。そして、植物を育てる人が、植物の育ちの法則を、まさに植物を相手にしながらで、言い換えれば、身をもって知れば知るほどに、その人の、植物の育ちのためにすること、植物を育てるためにすることが、巧みになされるようになるとともに、また、その人ならではのこととなっていきます。その「ためにすること」は、まさに見てとられることであり、まさしくリアルなことです。(「ファクター」に当たるのはFaktorであり、ラテン語factor〈仕立てる者〉から来て、いわば「働きのある元手」です。8-a)

 そのとおり、「ため」という考え、「合目的性」という概念は、人の振る舞いにこそ当て嵌まります。すなわち、人の振る舞いには、ふたつの働きが与ります。ひとつに、因から果への働きかけであり、もうひとつに、考えから人への働きかけです。そして、そのふたつは、いずれおとらず現実的な働きです。

 ついでですが、近くの路地に、日が暮れると、猫が五、六匹ほど集まり、前足をそろえて、きちんと座り、ひとりのおばあさんがネコカンをもって現われるのを待ちます。毎日ではありませんが、とにかく、待っている猫たちを見かける日があり、また、おばあさんがネコカンをあげながら、猫たちを諭したり、ほめたり、からだの汚れを拭いてあげたり、目やにを取ってやったりしているのを見かける日があります。どうやら、猫たちは、その日を、かしこくも探り当てているようなのです。どうやってなのか、不思議といえば不思議です。しかし、人のように考えてではありません。もし、その猫たちが人のように考えているのでしたら、たとえばですが、おばあさんが帰るときに、こっそりついていって、おばあさんの家をつきとめ、次からは、おばあさんの労を省くために、その日が来たら、家までやっていくとかしそうなものですが・・・。本能といってしまえばそれまでですが、やっぱり謎です。そして、夕暮れ時に、その路地を通るのが、すこしばかり楽しみであるのも、ひとっには、その謎のためでもあります。

 さて、ナイーブな意識は、いうならば、推し量りや思い設けをそれと気付かずにする意識でもあります。その意識は、たとえば動物の思考力とか、植物の認知力といった見えない力を、みずからの思考力、認知力をもとに推し量り、それを見える力のごとくに思いなすとか、はては自然の目的や創造主なるものを、みずからの振る舞いをもとに思い設けて、それがあたかもリアルなもののごとく思い込むとかもすることになります。しかし、そのような推し量り、思い設けが、科学からは遠のけられてきています。

 しかし、哲学においては、推し量り、思い設けによる、見えない力や、目的という考えが、いまなお幅をきかせたりします。たとえば、カントの「ものそのもの」(七の章)やシヨーペンハウアーの「闇雲の意志」(八の章)、カントの「定言的命令」(九の章)やハルトマンの「絶対者」(十の章)などです。

 三の段です。

 

 一元論は、人の振る舞いをただひとつの例外として、あらゆる分野における目的という〈考え〉を退ける。一元論は、自然の法則を探し求めるが、しかし、自然の目的を探し求めない。自然の目的は、視ることのできない力と同じく(七の章)、手前勝手な仮定である。しかしまた、人がみずからで据えるのではない、生きるの目的も、一元論の立場からは、ふさわしくない仮定である。目的が具わっているのは、人がいよいよ目的に向けて仕立てたところである。そもそも、イデーを現実にすることによって、目的に沿うところが生じる。イデーがリアリスティックな意味において働くのは、しかし、人においてこそである。それゆえ、人が生きるということこそは、目的と定めを有する。そして、その定めも、人が与えるところである。人は、生きるにおいて、いかなる課題を有しているかという問いに、一元論はまさにこう答えることができる。すなわち、その課題は、人がみずからで据える課題である。世における、わたしの使命は、先立って定められているのではない。それは、いずれであれ、わたしがわたしのために選ぶのである。わたしが生きる道を歩みだすのは、がんじがらめのルートをもってではない。

 

 まさに見てとられるかぎり、自然には目的がありあわせませんが、人の振る舞いには目的がありあわせます。逆に、目的がありあわせるのが、人の振る舞いです。そして、人の振る舞いによって、つくりだされるものにも、目的がありあわせます。たとえば、ペンは書くためのもの、ライターは火をつけるためのもの、コーヒーカップはコーヒーを飲むためのものです。さらには、黒毛の牛も、人によって、霜降り肉を供するためのものに仕立てられたりします。

 そもそも、目的は、振る舞う人にリアルに働きかける考えです。それゆえにこそ、人が生きるということには、目的と定めがありあわせます。その目的は、まさに人が考えるから据えるところであり、その定めは、まさに人が考えるから定めるところです。(「定め」に当たるのはBestimmungであり、be〈まさに〉stimmen〈調べる〉から来て「定かさ」の意です。なお「規定、行き先、本分、使命」というようにも訳されます。5-c-1)

 わたくしごとですが、「人はなんのために生きるのか」といったようなことを、やぶからぼうに訊かれると、ぎくっと固まつて、「べつに」などとはぐらかしたくなります。しかし、秘かには、わたしも、およばずながら、その問いをみずからに向けるものであり、まがりなりにも、その答えをみずからにさしだすものです。わたしのすることについて、人からのアドバイスはありがたく受けても、「これでいいのか」と問い、「まあなんとか」と答えるのは、つまるところ、わたしのほかではありません。振り返れば、ものごころついてよりこのかた、その問答を、いくたびとなくしてきましたし、これからもしていくことでしょう。たとえ生きる状況はがんじがらめでも、その問答こそは、わたしの自由です。そして、ここにいう一元論は、わたしにとって、その問答そのものを、「まあなんとか」と認める上での、なんとも大きな支えです。

 四の段です。

 

 イデーが目的に沿って現実に仕立てられるのは、人によってこそである。すなわち、歴史によるイデーの具現ということを云々するのは、真っ当なことではない。「歴史は、人が自由へと育ちゆくことである」、もしくは、行ないの世の秩序が現実に仕立てられることであるといった言い種は、すべて、一元論の視点からは、もちこたえられない。

 

 人が自由になりゆくのは、ほかでもなく人がみずからを育めばこそです。そこでの主役は、まさに人であり、歴史は脇役です。すなわち、人の自由になりゆく歩みが、歴史を振り返るによって跡づけられるまでです。なお「歴史は・・・」はヘーゲルのことばです。