· 

略伝自由の哲学第十章 b

 この回は十の章の六の段からです。

 

 一元論は、ナイーブなリアリズムになかば真っ当なところがあるのを、きっと、認める。なぜなら、覚えの世が真っ当であることを認めるからである。行ないのイデーを悟りによって生みだす技量をもちあわせない人は、それを、きっと、ほかの人から受け取る。人が行ないの原理を外から受け取るかぎりは、人が、事実、自由ではない。しかし、一元論は、覚えと並んで、イデーにも同じ意義を認める。しかし、イデーが現われうるのは、ひとりの人においてである。人がその側からの促しに沿うかぎりは、人がみずからを自由なものと感覚する。一元論は、しかし、たんに推し量るだけのメタフィジックについては、いささかの真っ当さも認めない。よって、また、いわゆる「ものそのもの」に由って来る、振る舞いの促しについてもである。一元論のとらえ方からすれば、人が不自由でありうるのは、覚えられる、外からの強いに従うにおいてであり、人が自由でありうるのは、ひとえにその人に聴き従うにおいてである。意識されない、覚えと〈考え〉の背後に潜む強いを、一元論は認めることができない。ある人が、共なる人の振る舞いについて、それは不自由な振る舞いだと言い立てるにおいては、きっと、覚えられる世のうちに、その人の振る舞いのきっかけとなったものごと、あるいは人、あるいは制度を追って知らせようが、その言い立てる人が、感官と精神による現実の世の外にある、振る舞いの因をよりどころとするとしたら、そのような言い立てに、一元論はかかわりようがない。

 

 ものごとは、見るに考えるが相侯って生じます。現実は、覚えと考えの重なりであり、覚えとともに、考えもまた現実の元手です。そのとおり、ふたつの元手によるひとつの現実を、まさに現実として立てるのが、ここにいう元論です(五の章)。

 覚えがそのまま現実であるとする、ナイーブな人は、なぜしかじかをするのかということ、すなわち振る舞いの原理を、ほかの人から受け取るか、覚えに準えて考えだすか、みずからの内なる声から命じてもらうかであり、いずれにしろ、覚えられはしても、その人のではない、その人の他のなにかの言いなりであって、自由ではありえません。

 しかし、そこでは現実のもうひとつの元手、考えが、ふさわしくは認められていません。そもそも、考えがひとりの人のものとなるのは、まさにひとりの人が考えるによって、つまり、悟るによってです。その悟るから来る、振る舞いの原理は、まさにひとりの人の原理であり、そこからの振る舞いは、まさしく自由な振る舞いと感じられます。

 さらに、ただに推し量ることをもって、「ものそのもの」という、覚えられない現実を思い設けるメ夕フィジック、つまり、二元論は、その「ものそのもの」が人の振る舞いを強いている、あるいは、命じていると言い立てます。

 しかし、そこでは現実の元手、覚えと考えが、ともにふさわしくは認められずに、推し量りによる思い設けが、いわばひとり歩きしています。そして、その思い設けがまことかどうかは、つまるところ、誰にも確かめることができません。だって、人が、ものごと、つまり、現実に迫るには、覚えると考える、ないし、見ると悟るによるしかないのですから。

 とにかく、人が覚えられるなにかに従うにおいて、不自由と感じ、その人の考えの悟りに沿うにおいて、自由と感じます。まさにそのことを、一元論は、まさしくこととしてとらえます。(「聴き従う」に当たるのはgehorchenであり、horen〈聴く〉から来て、「従う」の意です。なお、それはVernunft〈理性〉のvernehmen〈聴きとる〉に通じるでしょう。9-b-2)

 人から「あなたは不自由だ」と言われ、その理由として、物への囚われ、誰かの言いなり、しきたりのしがらみなどが挙げられたら、誰しも、いかようにであれ、人として、現実的に応じるでしょうが、「絶対者(良心、こうごうしいもの、神など)による命令」や「物質(分子運動、DNA、脳内物質など)による規定」をもちだされたら、どうでしょう。(「追って知らせる」に当たるのはnach〈追って〉weisen〈示す〉で、「指示、証明、紹介」の意です。なお、それはnachdenken〈迫って考える〉に通じているでしょう。3-a)

 七の段です。

 

 一元論のとらえ方からすれば、人は、なかば不自由に、なかば自由に振る舞う。人は、覚えの世において、みずからを不自由なものとして見いだし、みずからにおいて、自由な精神を現実にする。

 

 わたしたちは、生きるうえに食べること、歩くこと、休むことなど、おのずから、もろもろの必要と必然をかかえているのに気づきます。なおかつ、わたしたちは、そうしたことごとを、自由にやってのけようします。それは、わたしたちのひとりひとりが自由な精神を宿しているからでなくして、なにからでしょうか。まさにそのことを、一元論は、まさしくこととして引き立てます。(「現実にする」に当たるのはverwirklichenであり、wirken〈働く、働きかける〉から来て、「実現させる」の意です。なお「現実Wirklichkeit」については、ことに5-c-1の回を見てください。)

 八の段です。

 

 たんに推し量るだけのメタフィジックの論者が、きっと、高い力の湧きだしと見なす、行ないの命令は、一元論を認める人にとって、人の考えであり、行ないの世の秩序は、その人にとって、ただにメカニックな自然の秩序や、人をよそにした世の秩序でなく、自由な人の業の写しである。人は、世において人をよそにしたものの欲することをでなく、人みずからの欲することをやりとおすのであり、ほかのものの思し召しや意図をでなく、人みずからのそれを現実にする。振る舞う人の背後に、一元論は、人を意のままに定める、人にとってよそよそしい世の導きの目的を視るのではなく、人は、悟りとしてのイデーを現実にするかぎり、まさに人みずからの、人間的な目的に向かって、しかも、ひとりひとりどの人も、その人ならではの目的に向かって勤しむ。そもそも、イデーの世が残りなく生きるのは、人のコミュニティにおいてではなく、ひとりの人においてこそである。人々の共なる目標として出て来るところは、ひとえに、ひとりひとりの人がいちいちの意欲からすることの結果であり、しかも、たいていは、いくたりか、わずかばかりの選ばれた人たちのすることの結果であり、ほかの人たちは、それを権威として、それに従う。わたしたちのひとりひとりが自由な精神へと召されていること、バラの芽のひとつひとつが、バラとなるべく召されていることに同じである。

 

 推し量りもまた、はからいのうちであり、人が考えをもってすることの他ではありません。そもそも、人という人のすることというすることは、いささかなりとも人のひとりひとりが、しようとしてすることであり、人のひとりひとりがしようとしないかぎり、現実のことにはなりません。(「人の業」はMenschen〈人の〉werk〈業〉であり、werkはwirkenく働く、働きかける〉から来ています。)

 そして、考えの悟りからしようとする人が、まさに現実として、まさしくその人の立てた目標を目指して振る舞います。(「向かって勤しむ」に当たるのはverfolgenであり、folgen〈従う、追う〉から来て、「到ろうとする」との解があります。)

 すなわち、人のひとりひとりがしようとしてすることは、ひとりひとりの人、自由な精神を現実にすることへと招かれています。(「召されている」に当たるのはberufen seinであり、be〈まさに〉rufen〈呼ばれて〉sein〈いる〉という言い回しで、「・・・に適している、・・・が天職である」といった意です。)

 この回のお終いには、秋月流珉:界の禅者』岩波書店・同時代ライブラリーから、鈴木大拙のことば(1870~1966)を引きます。

 

 〈ひじ、外に曲がらず〉という一句を見て、ふっと何か分かったような気がした。・・・"そうだ、ひじは曲がらんでもよいわけだ。不自由(必然)が自由なんだ"と悟った。・・・カント以来、いやもっと前からだろう、西洋にフリー・ウィル(free will)とネセスィティ(necessity)の議論があるな。この経験があってからだ、どうも西洋の哲学というか、論理学というか、これはだめで、やはり禅でなくては、ということがわしにははっきりしてきたのだな。