この回は九の章の四十四の段からです。
カントは義務についてこう言う。「義務!そは気高く、大いなる名かな。そは好かれること、取り入ることをいっさい容れずして、従えと求める。」そは「法則を立て・・・その法則のまえでは、向きという向きが、それに秘かに逆らおうとするしりから、押し黙る。」それに対し、人は自由な精神の意識から言う。「自由!そは親しく、人ならではの名かな。そは行いとして好かれること、わたしの人たるところを最も多く尊ぶことをすべて容れ、わたしを誰の僕にもすることがない。そは法則を立てるのみか、わたしの行いへの愛そのものを法則として知るようになるところを待ち望む。なぜなら、その愛は、ただに押し付けられる法のいちいちを不自由と感じるからである。」
ここまでに見てきたとおり、自由な振る舞いは、まさにひとりの人がする振る舞いです。すなわち、その振る舞いは、そのひとりによる、その振る舞いの悟りと、その悟りから起こる意気込みと、その悟りから萌す愛、およびそのひとりのからだをもってなされます。そもそも ーことに前の二回で見てとったとおりですがー 自由は、ひとりの人のまたの名です。(「そ」に当たるのはduであり、二人称代名詞で、しかも親しい相手を呼ぶことばです。が、カントが親しく呼びかける「義務」は、なんて堅苦しく、冷たいのでしょう。さらにduは、わたしがわたしそのものを呼ぶにも使われます。そして、「自由」に呼びかけるduは、まさにそのduです。)
その振る舞いの悟りは、たとえ気高く、大きくても、そのひとりはそれにひれふしたり、それを崇めたてたりするには及びません。なにしろ、その悟りは、そのひとりの悟りであり、そのひとりにとってじつに親しいものです。(「親しい」に当たるのはfreundlichであり、freund〈友〉lich〈の〉というつくり、「人ならではの」に当たるのはmenschlichであり、mensch〈人〉lich〈の〉というつくりです。)
その振る舞いの悟りは、そのひとりによって取り込まれるにおいて、その振る舞いへの愛を湛えるようになります。そして、その愛は、その振る舞いにかかわるものごとへの愛でもあります。(「好かれる」に当たるのはbeliebtであり、be〈まさに〉lieben〈愛する〉の過去分詞形です。)
その振る舞いの悟りは、そのひとりによって振る舞いへと移されるにおいて、そのひとりが、その振る舞いとかかわるものごとと、いわば語らうようになります。そして、その語らいにおいて、そのひとりと、そのものごとが、なおさらそのひとりとして、なおさらそのものごととして立つようになります。まさにそれでこそ、そのひとりの掛け替えのなさ、そのひとりの尊さが、リアルにきわだつようになります。(「人たるところ」に当たるのはMenschentumであり、Menschen〈人間〉tum〈ぶり〉というつくりで、「人間性」の意です。「尊ぶ」に当たるのはWürdigenであり、「価値を認める」の意です。なお、そのことばはWürde〈尊厳〉に通じます。)
その振る舞いの悟りとしで悟られるのは、その振る舞いの法則にほかなりません。そのひとりは、その法則よって押し黙らされたり、捩じ伏せられたりはしません。そもそも、その法則は、そのひとりの意気込みをいきいきとそそります。(「向き」に当たるのはNeigungであり、neigen〈傾く〉から来て、「傾向、性向、愛着」といった意です。もちろん、「意向」も含まれます。)
さらに、その振る舞いの悟りから愛が萌すというのも、まさにその法則のうちです。そして、そのひとりがその法則を知るようになることは、そのひとりのからだが、なおさらにそのひとりを宿しつつ、なりかわることです。それは長いプロセスでもあり、そのひとりは、きっと、そのなりかわりを待ちます。(「待ち望む」に当たるのはabwartenであり、ab〈期して〉warten〈待つ〉というつくりで、「しかじかが生じるのを待つ」という解があります。)
四十五の段です。
それがただただ法則に従う行いと自由な行いの対し合いである。
カントのいう「義務」という考え、言い換えると、善き行ないの法則は、さながら水戸黄門の印籠のごとくです。その印籠を前にしては、まさに誰もがひれふし、押し黙ります。しかし、黄門その人はじつに人間的です。その人を前にしては、善き人も悪しき人も誰ひとりひれふしもしなければ、押し黙りもしません(もちろん、テレビドラマの話です。)
四十六の段です。
外に確立されたところにおいて具現された善き行いを視る堅物は、自由な精神において危険な人を視さえもしよう。しかし、その堅物がそうするのは、視野が狭く、ひとつの定かなスパンに限られているからである。そのスパンを越えて視ることができるなら、きっと、すぐにこのことを見いだそう。自由な精神は、国家の法を踏み越えるには、ほとんど及ばないこと、堅物と同じであるが、しかし、その法と現実的にかちあうには、決しておよばない。そもそも、国家の法は、そのまるごとが自由な精神の悟りから来ていること、ほかの、客として迎えられる行いの法則のすべてと同じてある。家長によって実施される法は、いずれであれ、かつて先祖のだれかにより悟りつつつかまれて、据えらなられたのである。慣いとなっている行いの法も、それなりの人たちによって、まずは立てられるのである。そして、国家の法は、いつだって政治家の頭に生じる。その精神たちが法を他の人たちの上に置いたのである。そして、不自由になるのは、それの由(よ)って来る源を忘れて、それを人の他のものからの命令や、客としての、人に依らない義務の〈考え〉に仕立てる人か、または、それをみずからの、変にミステリアスに強いると思われる内奥からの命令の声に仕立てる人だけである。しかし、その源を見落とさず、その源を人のうちに探し求める人は、その源を、みずからが行いの悟りを汲みだすイデーの世の一節と数えるようになろう。その人は、さらによい悟りを得たと思ったら、それをそれまでのに代えようとするし、それをふさわしいと見いだしたら、それがみずからのであるがごとくに、それに沿って振る舞う。
民族、宗教、国家などが有する、掟、律、法などが、善き行いの法則の具現されたかたちであるとする人は、さながら葵の紋の印籠をふりかざす助さん、角さんのごとくです。しかし、掟も律も法も、もともとはイデーとしで悟られるところであり、また、そのイデーを体現するのは、印籠や聖典や法典であるよりも、ひとりひとりの人です。そして、イデーの世は、それとしてひとつです。まさにそのことを知っているのが自由な精神であり、その精神はイデーにかちあいようがありません。(「法則」および「法」に当たるのはGesetzであり、setzen〈置く、据える〉から来て、「掟、法律、決まり」といった意でもあります。「具現する」に当たるのはverkörpernであり、ver〈手を加えて〉körpern〈からだにする〉というつくりで、「具体化、形体化、受肉化」といった意です。)
長い目で見ると、行ないの法則は、かつて掟や律法として、民族が奉じる神や氏族が祭る祖先の名のもとに、祭司や族長によって据えられました。そこではひとりひとりよりも、民族、氏族といったものがものをいっていました。行ないの法則は、やがて教義や法として、教会や国家の名のもとに、教父や主君によって定められました。そこでは、権威、権力といったものがものをいっていました。しかし、まさにそのなかで、ひとりひとりがきわだつようになりました。そのとおり、長い時をかけて、人であることのありかたは変わってきました。そして、人は、いま、行ないの法則の源として、自由な精神という、または、ひとりの人という、親しく、大きなものに気づきつつあります。(「スパン」に当たるのはZeitepocheであり、Zeit〈時代〉epoche〈エポック〉というつくりですなお「確立する」はfest〈しつかり〉stellen〈据える〉、「据える」はfest〈しつかりsetzen〈置く〉、「立てる」はauf〈起こして〉stellen〈据える〉、「置く」はsetzen〈置く〉です。)