前の回に取り上げた四十の段のお終いの件を、あらためて引くことにします。
こんなものいいがつくかもしれない。わたしが覚える人の覚えに、その人の生きるどの一時にも、ひとつの定かな〈考え〉が応じるのは、ほかのものというものに同じである。わたしはありきたりの人という〈考え〉をつくりなすことができるし、そのような人を覚えとして迎えたりもするが、その〈考え〉になおかつ自由な精神という〈考え〉を加えるとしたら、わたしは同じ客につき二つの〈考え〉をもつことになる。
からだの目に見える物にも人にも色、形、重さといった質や量があります。わたしはいろんな人を迎えて、太った人・痩せた人、色白の人・色黒の人といった考えをもとに区別したり、出身地、血液型といった考えや、理科系・文科系、勝ち組・負け組といった考えをもとに分類したりもできるんですけど、その自由な精神とかいう考えは、いったいどんな質と量による、どういう区別と分類を可能にしてくれるんでしょうか。(「ありきたりの人」に当たるのはSchablonenmenschであり、Schablone〈雛形どおりの〉mensch〈人〉というつくりで、「型にはまった人」の意です。)
そして、四十一の段です。
それは一面的な考えである。わたしは覚えの客として、弛まない変化に従っている。子どもとしてのわたし、若者としてのわたし、成人としてのわたしは、それぞれに違っている。どの一時においても、わたしの覚えの相は、先立っ時における相と異なっている。その変化が生じるのは、その変化のうちに相変わらず同じ人(ありきたりの人)がものをいっているという意味においてでもありうるし、その変化が自由な精神の表れであるという意味においてでもありうる。その変化に、わたしの振る舞いという覚えの客は従っている。
自由な精神という〈考え〉をもとにして、あの人は自由な人、この人は自由でない人と区別し分類するとしたら、ことがらをそもそもからはきちがえています。そもそも、自由な精神は、人のタイプとか類型ではなく、人のひとりひとりです。
からだの目に見える人は、見えるそのつど多かれ少なかれ異なります。太っていた人が、二月後には痩せていたり、勝ち組で羽振りのよかった人が、一年後には負け組に転じて、しょぼくなっていたり、甘えん坊だった子が、いつの間にかいいお兄ちゃんになっていたりですが、要はそのような変化においてまさにひとりの人、自由な精神があらわにものをいっているかどうかです。
そもそも、人が育つことは、人となること(パーソナリティが育まれること)であるのはもとより、ひとりの人としてさらに人間らくしなること(インデイビジュアリティが培われること)でもあります。すなわち、太っていようと痩せていようと、勝ち組であろうと負け組であろうと、さらにまた子どもであっても大人であっても、ひとりの人の昨日から今日へ、先週から今週へ、先月から今月へ、去年から今年への変化が、そのような意味での育ちであることもありえます。
そして、ひとりの人の振る舞いこそは、きっと、そのような育ちの意味での変化を経てきていますし、これからも経ていきます(「意味Sinn」は、いわば「体現された〈考え〉、ないし法則」です。それについては、ことに5-d-2の回を見てください。)
四十二の段です。
人という覚えの客のうちに、みずからをなりかわらせる可能性が与えられているのは、植物の芽のうちに、まるまるの植物となる可能性があるのと同じである。植物がみずからをなりかわらせるのは、客として植物のうちにある法則性のゆえであるが、人はなりかわりの素材をみずからでつかみあげ、みずからをみずからでなりかわらせないと、まるまるではないありようののままでありつづける。自然は人をたんに自然のものに仕立てるまであり、社会は人を規則に従って振る舞うものに仕立てるが、自由なものに人を仕立てることができるのは、ひとりその人のみである。自然は人の育ちのそれなりの局面において人を軛から自由にし、社会はその育ちをさらなる点にまで導くが、最後のみがきをかけることができるのは、まさにその人こそである。
植物は芽吹き育ち、やがて枯れて朽ちます。それは植物の法則であり、その法則を、人は植物において見いだします。しかし、植物はみずからが芽吹き育ち、枯れて朽ちることの意味を求めません。植物はそのことの法則をおのずから体現します。また、動物は動物なりに生きて動きます。その法則も、人が動物において見いだします。しかし、動物はみずからが生きて動くことの意味を求めはしません。動物はそのことの法則をおのずから、もしくは本能的に体現します。(「なりかわらせる」に当たるのはumbildenであり、um〈変えつつ〉bilden〈つくりなす〉というつくりです。)
しかし、人は、みずからが生きて動くことの意味を、さらにはみずからが生まれて育ち、老いて死ぬことの意味を、きっと、おのずから求めるようになります。それは人がそのことの法則をおのずからには、言い換えれば、本能的には体現しないからです。そして、人がそのことの法則を体現するのは、というよりも体得するのは、みずからが生きて動き、生まれて育ち、老いて死ぬことの、つまりは、みずからの振る舞いの悟りを、みずからでつかみとりつつ、みずからで振る舞ってこそです。それでこそ、その悟りが法則として体得され、意味として見いだされます。そして、その意味は生死に左右されません。そもそも、盛者は必衰であっても、盛者必衰という法則は必衰ではありません。(「素材」に当たるのはStoffであり、「織物、原料、要素」といった意で、ここでは「悟り、考え、思い、想い」などを指します。それはまさに「織られたもの」であり、「仕立てるもの」でもあります。)
ひとりの人がその人の振る舞いの悟りをつかみ、それに沿って振る舞いつつ、みずからを自由な人に仕立てていくうえに、二十歳あたりまではなによりも自然(からだの育ちの法則性)が支えとなり、四十歳ごろまではなによりも社会(のなかでもまれること)がきっかけとなり、その後は、みずからを自由な人に仕立てるも仕立てないも、まさにひとりの人に懸かるようになります。
四十三の段です。
自由な行いの立場は、すなわち、自由な精神が人の存在のただひとつのつくりであるとは言い立てない。そのつくりは自由な精神であることのうちに、人の育ちの最後の局面をこそ視る。それは規範に従う振る舞いが育ちの次元としてそれなりのふさわしさを有するということを、否定していない。ただ、そのことを絶対的な行いの立場として認めることはできない。しかし、自由な精神は規範を凌ぐ。すなわち、命令をモチーフとして感覚するだけではなく、みずからの振る舞いをみずからの志(悟り)に沿って仕立てるという意味においてである。
人が自由な精神をみずからで体得するありようは、人の育ちのお終いの局面です。まさしく、精神の人にとっては、老いることも育つことです。たとえば「天命を知る」「耳従う」「自らの欲するところに従いて矩を鍮えず」というのも、その老いにおける人の育ちのプロセスを指すでしょう。そのプロセスは、お終いの局面においても尽きはしません。どこまでも人間的になりゆくプロセスです。そして、そのプロセスのはじまりに目を向ければ、人がまずはからだから自由になりつつ、みずからの志に気づくようになり、社会によって導かれつつ、みずからでこころを律して立つようになり、悟りをみずからでつかみつつ、落ち着きを得るようになります。
さて、この回のお終いには、覚えの世のうつろいと自由な精神の広やかなまなざしにちなんで、御存じ『古今和歌集』から小野小町の歌を引きます。
花の色はうつりにけりないたづらに
我が身世にふるながめせしまに