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略伝自由の哲学第九章c-2

 前の回には書き手による過ちが、書き手の気づいたかぎりで二つあります。はじめの二十四の段へのコメントにある「生きるの元手」は「生きるのファクター」のこと、お終いの二十八の段へのコメントにある「モラルを悟る力」は「モラルを悟る才」のことです。「元手 Element」と「ファクター Faktor」、「才 Vermögen」と「力 Fähigkeit」を、わざわざ訳し分けておきながら、うっかり使い方を間違えていました。「元手」は、人におのずから与えられてあり、「ファクター」は、人が元手をもってする働き、「才」は、人に生まれながら授かっており、「力」は、人が才のゆえに働いて育みます。要は、ことばでなく、ことがらであり、ことがらに適ったことば使いですが、書き手のうかつさが、あらぬ気遣いのきっかけになっていましたら、ごめんなさい。

 

 さて、この回は二十九の段の段からです。

 

 具象のケ一スにおいで悟られ定められる振る舞いの要は、ふさわしい、まったくひとりなりの悟りを見つけだすことである。行いのその次元において、あまねき、行いの〈考え〉規範、法則)が云々されうるのは、その〈考え〉が、ひとりなりの意気込みをあまねく仕立てるから生じるかぎりにおいてである。あまねき規範は、つねに具象のことごとを先立てており、そのことごとから導き出される。しかし、そのことごとは、人が振る舞うによって、いよいよ生みなされる。

 

 わたしたちひとりひとりが世を定かに迎えるのは、それぞれの立つところから見てとるによってであり(6-e)、あまねき〈考え〉を定かに迎えるのは、それぞれなりに悟るによってです(5-c-1)。そして、まさにひとりひとりが振る舞うのは、それぞれに見てとる世の定かさに応じて、あまねき世から、それぞれなりにふさわしい振る舞いの〈考え〉を悟ってとらえ(受け取り)、つかみ(引き受け)つつ定かにしてこそです。(「見つけだす」に当たるのはauffindenであり、finden〈見いだし〉auf〈上げる〉というつくりで、「発見」とも訳され、「発明erfinden」にも通じます。)

 ひとりがひとりなりにふさわしく悟ってつかんだ定かな振る舞いの〈考え〉は、ひとりなりの心意気として息づきます。その〈考え〉から、その心意気が失せるか、その定かさがさしひかれると、あまねく誰しもに考えられる〈考え〉が残ります。が、あまねく誰にでも引き受けられるとはかぎりません。ちなみに、前の回のカントの一文は、悟りつつ定めるの、ひとりなりであることを見落とせばこその一文です。つまり、カントのいう「定言的命令」は、ほかならないカントの命令です。はたして、その命令は、あまねくどころか、せいぜいカントその人と、カントを担ぎ上げる人たちによってしか引き受けられてはきませんでした。そもそも、あまねき〈考え〉は、ひとりなりに悟られます。だからこそ、命令として、よそよそしく、冷たくでなく、わがこととして、親しく、暖かく受け取られ、篤く、厚く引き受けられます。(「あまねく仕立てる」に当たるのはverallgemeinernであり、ver〈手を加えて〉allgemein〈あまねく〉em〈する〉というつくりで、「普遍化、般化」とも訳されます。なお「意気込みAntrieb」については、前の回を見てください。)

 あまねく誰もが守るべきことというのは、なにごとであれ、誰かが誰かのケ一スでしたことから、考えるによって引き出された〈考え〉でなくしてなんでしょうか。(「導き出す」に当たるのはableitenであり、ab〈環して〉leiten〈導く〉というつくりで、「推論、演繹」とも訳されます。)

 まさにひとりのケ一スで、まさにひとりが欲してすることというのは、なにごとであれ、まさにひとりが新たに生みだし、オリジナルに仕立てることでなくしてなんでしょうか。(「ことごと」に当たるのはTatsachenであり、Tat〈することの〉sache〈ことがら〉というつくりで、「事実」とも訳されることばの複数形です。それについては、ことに5-d-2の回を見てください。「生みなす」に当たるのは schaffenであり、ラテン語 creare〈汲む、創造する〉の借用翻訳 schöpfenから来て、「為す、成す、産す」の意です。それについては、3-c, 4-b-3, 7-a-3, 7-b-2の回も合わせて見てください。)

 そして、三十の段です。

 

 わたしたちは、法則たるところ(ひとりの、民族の、時代の振る舞いにおける〈考え〉たるところ)を探しだすにおいて、倫理学を得るが、しかし行いの規範の科学としてではなく、行いの自然学としてである。いよいよそれによって得られた法則が、人の振る舞いにかかわるのは、自然法則が、ことさらな現象にかかわるのと同じである。しかし、その得られた法則は、わたしたちがわたしたちの振る舞いの基に据える意気込みと、決して同じものではない。人の振る舞いが、それなりの行いの欲りから湧きだすのは、なにによってであるかを、とらえようとするにおいては、きっと、まず振る舞いに向かう欲りのありようを視る。きっと、まず振る舞いを目に据えるが、そこでは欲りのありようが定めるものである。わたしが、または他の人が、後から、そうした振る舞いにつき追って考えるにおいては、その振る舞いのもとに、どういう行いのマキシムが見てとられるところとなるかが、明らかになってこよう。わたしが振る舞うさなかにおいては、行いのマキシムが、悟りとして、わたしのうちに生きうるかぎりで、わたしを動かし、行いのマキシムが客への愛と結びついている、つまり、わたしが振る舞いによって現実に仕立てようとする客である。わたしは、その振る舞いを繰り広げるべきかと、人に問うでなく、規律に問うでもなく、その振る舞いのイデーをつかんだら、すぐにもその振る舞いを繰り広げる。それでこそ、わたしの振る舞いがある。定かな行いの規範を認めるからこそ振る舞う人であれば、その人の振る舞いは、その人のモラルの典範に記されている原理から生じたことである。その人は、ただ執行者である。その人は、高度な自動機械である。振る舞いへのきっかけを、その人の意識のうちに投げ込んでやれば、立ちどころに、その人のモラルの原理の歯車が動きだし、法則どおりにことが捗って、キリスト者の、ヒューマンな、その人にとって無私の、あるいは文化史の歩みの振る舞いをなしとげる。わたしがわたしの客への愛に沿うにおいてこそ、わたしが振る舞う人その人である。わたしが行いのその次元で振る舞うにおいては、わたしの主を認めるからでもなく、外なる権威や、いわゆる内なる声を認めるからでもない。わたしがわたしの振る舞いの外なる原理を認めないのは、わたしがわたしのうちに振る舞いの基、振る舞いへの愛を見いだしているからである。わたしは、わたしの振る舞いが善いか悪いかを分別によって吟味するでなく、わたしがわたしの振る舞いを仕立てるのは、わたしがわたしの振る舞いを愛するからである。わたしの振る舞いが「善く」なるのは、わたしの愛に浸された悟りが、悟りとして生きられる世のかかわりのうちに、ふさわしく立つにおいてであり、「悪く」なるのは、そうでない場合においてである。また、わたしは、わたしのケースで他の人ならどう振る舞うだろうかと、みずからに問うでもなく、わたしが振る舞うのは、わたし、このことさらなひとりに、欲するきっかけがあるのを視るがままにである。あまねき習わし、あまねき人のマキシム、行いの規範がではなく、わたしのすることへの愛が、じかにわたしを導く。わたしは強いを感じない、もよおしにおいてわたしを導く自然の強いも、行いの決まりの強いもであり、わたしは、ただにわたしの内にあることを繰り広げようとする。

 

 いまひとたび、はじめの文から見ていきます。

 

 わたしたちは、法則たるところ(ひとりの、民族の、時代の振る舞いにおける〈考え〉たるところ)を探しだすにおいて、倫理学を得るが、しかし行いの規範の科学としてではなく、行いの自然学としてである。

 

 たとえば、江戸の人たちの行いを振り返ってみるにおいて、粋という〈考え〉が引き出されます。かりにタイムマシーンがあったとして、その〈考え〉を確かめるのに江戸までやっていき、粋な人たちをつかまえて、粋とはこうこうこういうことですねと尋ねるとしたらどうでしょうか。てやんでぇ、すっとこどつこい、おとといおいでと、ーも二もなく突っばねられそうな気がします。とにかく、粋な人たちにとって、粋をとくとくと論じるのは、粋ではないでしょう。逆に、粋でない人が、粋という〈考え〉をきちんとらえることができたとしても、粋に生きられるとはかぎりませんし、わざわざ粋に生きようとはしないかもしれません。そして、わたし、『略伝』の書き手は、粋でない人のひとりです。ただ、それでも、粋は、わたしのこころを引きよせます。もちろん、行いの規範としてでなく、行いのありようとして、懐かしいからです。(「自然学」に当たるのはNaturlehreであり、Natur〈自然の〉lehre〈教え〉というつくりで、物理学、生理学、心理学などを含めた、広い意味での自然科学のことです。)

 二の文です。

 

 いよいよそれによって得られた法則が、人の振る舞いにかかわるのは、自然法則が、ことさらな現象にかかわるのと同じである。

 

 粋という、かずかずの振る舞いから引き出された〈考え〉が、さらにかずかずの振る舞いに当てはまります。それはたとえば重力の法則が、かずかずの落下現象に当てはまるのと変わりありません。その意味において、倫理も、物理、生理、心理と同じく、自然の法則です。ただ、倫理は、人によって担ぎ上げられて、崇められたり、守られたり、押し付けられたりもするだけです。つまり、人は倫理を規範に仕立てたりもします。(なお「自然 Natur」については、ことに二の章を見てください。)

 三の文です。

 

 しかし、その得られた法則は、わたしたちがわたしたちの振る舞いの基に据える意気込みと、決して同じものではない。

 

 粋な人たちは、粋という〈考え〉を、担ぎ上げるよりも、心意気として生きる人たちです。その〈考え〉は、その人たちによって、規範に仕立てられているよりも、気っ風に仕立てられています。

 さて、四の文です。

 

 人の振る舞いが、それなりの行いの欲りから湧きだすのは、なにによってであるかを、とらえようとするにおいては、きっと、まず振る舞いに向かう欲りのありようを視る。

 

 振る舞おうと欲するから振る舞うへ、そのあいだには、なんらかのきっかけがあります。そのきっかけを見てとろうとするにおいては、振る舞いへの欲りのありように目を向けることを要します。(「ありよう」に当たるのはVerhältnisであり、verhälten〈抑える、とどめる〉から来て、「間柄、状態、釣り合い」といった意です。なお、それについては、ことに3-aの回を見てください。)

 五の文です。

 

 きっと、まず振る舞いを目に据えるが、そこでは欲りのありようが定めるものである。

 

 たとえば、しぶしぶであったり、はつらつとであったりなど、振る舞いのさま、ないし味わいは、振る舞いがどのように欲されているかによって定かになります。(なお「まずzunächst」については、ことに4-b-3の回を、「いよいよ erst」については、ことに4-a-2の回を見てください。どちらも「起点」を示しますが、むきが異なります。)

 六の文です。

 

 わたしが、または他の人が、後から、そうした振る舞いにつき追って考えるにおいては、その振る舞いのもとに、どういう行いのマキシムが見てとられるところとなるかが、明らかになってこよう。

 

 わたしがなにかをした後で、さて、どういうつもりかと、みずから振り返ってみることがありますし、また、どういうつもりなのだと、他の人から問われることもあります。そのことによって、そのつもりが、だんだん明らかになり、確かにとらえられるようになります。その時のわたし、または他の人は、まさに「知ろうとする人」です。(なお「追って考えるnachdenken」については、ことに3-aの回を、「見てとるbetrachten」については、ことに3もの回を見てください。)

 七の文です。

 

 わたしが振る舞うさなかにおいては、行いのマキシムが、悟りとして、わたしのうちに生きうるかぎりで、わたしを動かし、行いのマキシムが客への愛と結びついている、つまり、わたしが振る舞いによって現実に仕立てようとする客である。

 

 まさにわたしが振る舞おうとするのは、わたしなりの振る舞いの悟りをもって、わたしなりの意気込みからであり、まさにわたしがその振る舞いを仕立てるようとするのは、わたしなりに仕立てることへの親しさによってです。すなわち、まさに「知ってする人」としてのわたしにおいては、いうならば「先立って考える」ことがモチーフとなり、そのことへの心意気が弾みとなり、そのことへの愛がきっかけとなります。(「現実に仕立てる」に当たるのはverwirklichenであり、ver〈手を加えて〉wirklichen〈現実にする〉というつくりで、ふつう「現実化、実現」とも訳されますが、「あまねく仕立てるverallgemeinern」に倣って「現実に仕立てる」と訳しました。なお「知ってする人」「知ろうとする人」については、一の章を見てください。)

 そして、八の文です。

 

 わたしは、その振る舞いを繰り広げるべきかと、人に問うでなく、規律に問うでもなく、その振る舞いのイデーをつかんだら、すぐにもその振る舞いを繰り広げる。

 

 まさにわたしが悟りつつ考えるによって定かにとらえ、定かにつかんだ振る舞いは、それそのものに見通しがあります。その振る舞いを為すのに、為すベきかどうかを、わざわざ他の人に問うには及びませんし、規範に照らし合わせるまでもありません。(「繰り広げる」に当たるのはausführenであり、aus〈外へと〉führen〈連れ行く〉というつくりで、「連れ出す、仕上げる、詳しく論じる」といった意です。なお「つかむfassen」については、ことに3-bの回を見てください。)

 九の文です。

 

 それでこそ、わたしの振る舞いがある。

 

 その「ある」は、ものごとの「ある」となんの変わりもありません。

 十の文です。

 

 定かな行いの規範を認めるからこそ振る舞う人であれば、その人の振る舞いは、その人のモラルの典範に記されている原理から生じたことである。

 

 さきに見たとおり、すでになされていることごとを追って考えるによって、倫理が引き出されます。さらに、その倫理が是とされるにおいて、是とする人のうちにコピーされ、その人の振る舞いを律する規律となります。よって、その律される振る舞いは、コピーの命じるままをなぞってなされることの他ではありません。(「生じたこと」に当たるのはErgebnisであり、geben〈与える〉から来て、「結果、帰結」といった意です。なお、そのことばは、「生みなすschaffen」と対をなします。)

 十一の文です。

 

 その人は、ただ執行者である。

 

 執行者というのは、言うまでもなく命令、規律、規範によって振る舞う人のことです。(「執行者」に当たるのはVollstreckerであり、Voll〈フルに〉strecker〈伸ばす人〉というつくりです。)

 十二の文です。

 

 その人は、高度な自動機械である。

 

 すなわち、次の文の意味においてです。

 十三の文です。

 

 振る舞いへのきっかけを、その人の意識のうちに投げ込んでやれば、立ちどころに、その人のモラルの原理の歯車が動きだし、法則どおりにことが捗って、キリスト者の、ヒューマンな、その人のいう無私の、あるいは文化史の歩みの振る舞いをなしとげる。

 

 いまならばOA機器がボタンひとっで起動し、とにかくプログラムされたとおりを気に仕立てるように、規範を認めて振る舞う人が、きっかけを外から受けて動きだし、とにかく規範の命令を規律をもって通りなしとげます。無機的に、取りつく島もなく、粋な人のとか、アントロポゾーフのとか。(「きっかけ」に当たるのはAnlaßであり、an〈ついて〉lassen〈任せる〉から来て、「契機、機縁」の意です。「なしとげる」に当たるのはvollbringenであり、voll〈フルに〉bringen〈もたらす〉というつくりです。)

 十四の文です。

 

 わたしがわたしの客への愛に沿うにおいてこそ、わたしが振る舞う人その人である。

 

 振る舞いへのきっかけが、わたしの内に、振る舞いつつ仕立てることへの愛として萌していればこそ、まさにわたしが振る舞う人です。

 そして、十五の文です。

 

 わたしが行いのその次元で振る舞うにおいては、わたしの主を認めるからでもなく、外なる権威や、いわゆる内なる声を認めるからでもない。

 

 さきに見たとおり、経験をもとに推し量るによって、なんらかのメタフィジカルなものが、いわゆる「絶対者」として思いもうけられます(7-b-2)。そして、そのものをもとに、規範に従うべしと命じられるのは、外の権威や内の声によって、決まりを守れと迫られるのと同じです。しかし、振る舞いの悟りのレベルでは、従うにも及びませんし、守ることも要しません。(「主」に当たるのはHerrであり、主客の「主Subjekt」でなく、主従の「主」です。)

 十六の文です。

 

 わたしがわたしの振る舞いの外なる原理を認めないのは、わたしがわたしのうちに振る舞いの基、振る舞いへの愛を見いだしているからである。

 

 振る舞いの悟りのレベルでは、わたしなりのあまねき見通しがあるからこそ、他の拠り所を要しませんし、わたしの内に、することへの愛があるからこそ、外からのきっかけも要りません。

 十七の文です。

 

 わたしは、わたしの振る舞いが善いか悪いかを分別によって吟味するでなく、わたしがわたしの振る舞いを仕立てるのは、わたしがわたしの振る舞いを愛するからである。

 

 振る舞いへの愛から振る舞うにおいては、善し悪しの分別も要しません。逆に、その分別を要するのは、他のよりどころにより、外からのきっかけをもって振る舞うにおいてです。(「仕立てる」に当たるのはvollziehenであり、voll〈フルに〉ziehen〈引<〉というつくりです。なお「分別Verstand」は、「分かる(つかむ)」から生まれる「分かつ力」です。ふつう「悟性」と訳されますが・・・。)

 十八の文です。

 

 わたしの振る舞いが「善く」なるのは、わたしの愛に浸された悟りが、悟りとして生きられる世のかかわりのうちに、ふさわしく立つにおいてであり、「悪く」なるのは、そうでない場合においてである。

 

 規範に従い、決まりを守って振る舞うにおいては、従い、守るのが善であり、どうすれば従い、守ることができるかを、規範、決まりに照らして判断すること、つまり分別によって吟味することを要します。しかし、振る舞いの悟りは、世のかかわりのうちに仕立てることの見通しであり、そのことへの愛は、そのことを世のかかわりのうちに、ふさわしく仕立てる愛であり、なおさらにふさわしく仕立てていく愛です。それに要するのは、分別による吟味でなく、振る舞いによる吟昧です。(「吟味」に当たるのはprüfenであり、「試練」の意でもあります。)

 十九の文です。

 

 また、わたしは、わたしのケ一スで他の人ならどう振る舞うだろうかと、みずからに問うでもなく、わたしが振る舞うのは、わたし、このことさらなひとりに、欲するきっかけがあるのを視るがままにである。

 

 そう欲しているのは、ほかのだれかでなく、わたしであり、まさにわたしには、そう欲するきっかけがあります。つまり、そう欲して振る舞いつつ仕立てることへの愛があります。(「きっかけがある」に当たるのはveranläßtであり、ver〈手を加えて〉anlassen〈任せる〉の受身形です。)

 二十の文です。

 

 あまねき習わし、あまねき人のマキシム、行いの規範がではなく、わたしのすることへの愛が、じかにわたしを導く。

 

 振る舞いの悟りから意気込み、欲りへ、振る舞い、仕立てることへと、わたしを導くのは、それへの愛にほかなりません。愛は、そのとおり、間柄において顕れるモード、ないし趣、ないしありようの、ことさらなひとつです。(なお「モードModus」については、ことに4-c-1の回を、「趣Art」については、ことに4-b-1, 6-cの回を見てください。)

 二十一の文です。

 

 わたしは強いを感じない、もよおしにおいてわたしを導く自然の強いも、行いの決まりの強いもであり、わたしは、ただにわたしの内にあることを繰り広げようとする。

 

 すなわち、人が振る舞うにおいては、モチーフ、きっかけ、弾み、ことの仕立て(ないし仕事)が見てとられるところとなります。かたや悟り、愛、意気込み、まさにひとりの人のすることとして、かたや規範、命令(ないし規律)、強制、執行として。(ついでに「因縁生起」というのも、そもそもは右の四つのファクターを言うのではないでしょうか。どなたか知っていたら教えてください。)

 さて、この回のお終いには、ふと、その気になって買ってきて、どうにかこうにか読んでみました九鬼周造『「いき」の構造』(岩波文庫)から、こういう一節を引きます。

 

 我々は最後に、この豊かな特彩をもつ意識現象としての「いき」、理想性と非現実性とによって自己の存在を実現する媚態としての「いき」を定義して「垢抜けして(諦)、張のある(意気地)、色っぽさ傭態)」ということができないであろうか。

 

 いかがでしょう。そう定義するきっかけを与えた人たちは、「諦め」「意気地」「媚態」という定かなかたちにおいて、言い換えれば、抑えのきいた、一本気で、仇っぽい感じのする振る舞い、ことの仕立てにおいて、ほかでもなく悟り、意気込み、愛を、いきいきと生きていなかったでしょうか。つまり、わたしたちの文化のなかでは、まさにひとりひとりのすること、もしくは自由が、ひとつに「いき」として「異性的特殊社会」のなかで、すなわち粋筋のことさらなケ一スと状況において準備されてきたということ、さらに花柳界の出である母と男爵であり外交官である父のあいだに生まれ、愛をもって鋭く考えたひとりによって引き立てられ、しかもそのひとりが洋行帰りであり、そのひとりの仕事が岩波書店によって公にされたのも手伝って、あまねく、その筋でない人にも受け入れられるようになったということが、できないでしょうか。