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略伝自由の哲学第九章b-3

 前の回で、欲する(ないし振る舞う)のファクターのひとつ、質(ないし弾み)に、どんなありようがあるかを見てとりましたが、この回では、もうひとつのファクターであるモチーフに目を向けていきます。すなわち、十六の段からです。(なお、前の回で段のナンバーをひとつ振り落としてしまいました。すみません。)

 

 現実の欲してのアクトにいたるのは、そのつどの振る舞いへの促しが、〈考え〉か想いのかたちにおいて、質へと働きかけてこそである。そして、そのような促しが、欲するのモチーフとなる。

 

 前の回に見てとったとおり、質は留まるファクターであり、モチーフはそのつどのファクターであり、そのふたつの響き交わしをもってこそ、ひとりひとりの振る舞いが、ありありとあるにいたります。(「現実の」に当たるのはwirklichであり、wirk〈働きの〉lich〈ある〉というつくりです。それについては、ことに5-c-1, 7-b-1~7-c-2の回を見てください。)

 

 十七の段です。

 

 行いのモチーフは、想いと〈考え〉である。倫理学者のなかには、情のうちに行いのモチーフを視る者もいる。その者は、たとえばこう言い立てる。行い、ないし振る舞いの目指すところは、振る舞うひとりのうちの快の量を、できるかぎり大きくすることであると。しかし、快そのものはモチーフとなりえず、ただ、想われた快がモチーフとなりうるだけである。やがて出てくる情でなく、その情についての想いが、わたしの質に働きかけうる。そもそも、その情そのものは、振る舞うその時にはまだありあわせず、むしろ人が、いよいよ振る舞うによってもたらそうとするのである。

 

 人の行いはすべてがすべて快を得ようとしてなされるという説があります。ちなみに、一の章に出てくるパウル・レという人も、そのような説を唱えているそうです。が、それは行いのファクターのひとつ、〈考え〉ないし想いないし思いを見落としていればこその説です。はたして、わたしは、快を得ようとして振る舞うときには、まさに快を得ようと思って振る舞っています。そして、快も情のうちのひとつであり、情は、前の回に見てとったとおり、行いの弾みのうちのひとつです。

 十八の段です。

 

 しかし、みずからの益、または他人の益という想いは、当然、欲するのモチーフと見なされる。みずから振る舞うによって、みずからの快をできるだけ大きくしよう、つまり、ひとりなりの幸せを得ようという原理が、すなわちエゴイズムである。そのひとりなりの幸せを得ようとすることは、見境なくみずからの快だけを思い、その快を他の人の幸せを損なっても得ようとするによってなされるか(まぎれのないエゴイズム)、または幸せな他の人からみずからへと間接に好ましい影響が及ぶことを見込むゆえ、ないしは他の人に害を与えるによって、みずからの利が危うくなることを恐れるゆえに、他の人の益を促すによってなされるかである(世知)。エゴイスティックな行いの原理のことさらな内容は、人が、みずからの幸せ、または他の人の幸せについて、どのように思っているかに懸かるようになる。ひとりの人が、なにを生きることの善さと視るか(いい暮らし、幸せへの望み、さまざまな不幸せからの救いなど)に従って、そのひとりが、そのひとりのエゴイスティックな勤めの内容を定めるようになる。

 

 たとえば、食べる、寝る、遊ぶなどは、人がものごころのつく前からしていることです。そして、そのことにいつしか気づき、そのことに幸せを感じ、そのことをしようと思ってするようになります。そのかぎりでなら、その思いは、ごくもっともな思いです。すなわち、ことにからだにかかわることに関しては、みずからのためになるという思いをモチーフとして振る舞うこと、すなわちエゴイズムは、いたってまっとうなモラルの原理です。食べたいときに食べたいだけ食べ、寝たいときに寝たいだけ寝、遊びたいときに遊びたいだけ遊ぶことができるのは、なんという幸せでしょうか。その幸せそのものを貶す人は、わずかしかいないでしょう。ちなみに、しばしば引き合いに出されるシヨペンハウアやハルトマンは、そのわずかしかいないであろう人に属します。(「当然」に当たるのはmit Rechtであり、Recht〈正義、権利を〉 mit〈もって〉という言い回しで、「正当に、もっともながら」といった意です。)

 しかし、そこには、みずからだけではなく、他の人もからんでいます。人は、いつしかそのことにも気づいて、他の人に気を遣うようになります。その気遣いには、他の人をまったくないがしろにすること(まぎれのないエゴイズム)から、他の人をもできるかぎりは立てようとすること(世知)にいたるまで、大きな幅がでてきます。どういう気遣いをするかはともかく、共に楽しく食べ、なんのさしつかえもなく眠り、なんのさしさわりもなく遊ぶことができるのも、やはり幸せであり、その幸せを求めることそのことを詰る人も、あまりいないと思います。(「世知」に当たるのはKlugheits moralであり、Klugheits〈さかしらの〉moral〈モラル〉というつくりです。なお、世知には辛いをはじめ、いろいろな味わいがあります。ついでに、さきほど週刊誌で読んだ話ですが、浅草のお店でのこと、そこで働くいい年をした女の人を「オバサン」と呼んだら、聞こえないフリをされた。もう度「オバサン」と呼ぶと、「浅草にはおねえさんはいてもオバサンはいないんだよー」と言われたそうです。なんとまあ、甘辛味わいです、おねえさん!)

 しかし、食べる、寝る、遊ぶということでも、人は、いつしか、ひととおりの幸せでは飽き足らなくなり、さらなる幸せを願って、その願いから振る舞うようになります。そして、その飽き足りなさという情、その願いというかたちの思いは、ひとりひとりそれぞれでもあります。ここでもまた、どう振る舞うかは別として、その情、その思いを抱くのは、やむをえないことであり、その意味ではもっともなことではないでしょうか。(「エゴイズム」というと、そのネガティブな面ばかりが引き立てられがちですが、「当然」ということばに促されて、ポジテイブな面に目を向けてみました。ついでですが、ついこのあいだ「お金を儲けて、なにがいけないんですか」という問いが、さる方から発せられましたが、その問いは、だれよりもその方こそが、とくと考えてほしいものです。)

 十九の段です。

 

 さらなるモチーフと見なすことができるのは、まぎれのない〈考え〉としての、振る舞いの内容である。その内容は、みずからの快という想いのように、いちいちの振る舞いに重なるだけではなく、とある振る舞いが行いの原理のシステムから是とされることに重なる。そのモラルの原理が、抽象的な〈考え〉のかたちで、行い、ないし生きかたを律しもする。ひとりひとりがその〈考え〉の源に気を配ることなくしてである。その場合、わたしたちは、わたしたちの振る舞いの上に決まりとして浮かんでいる、行いについての〈考え〉に従うことを、ひとえに行いについての必然と感覚する。その必然を是とすることを、わたしたちは、それに従えと求めるものに任せる。そのものとは、わたしたちが認める権威である(家長、国家、社会のしきたり、教会の権威、神の啓示など)。そうした行いの原理のことさらなひとつが、決まりが外なる権威によってではなく、わたしたちみずからの内によって告げられるものである(行いにおける自律)。その場合、わたしたちは、みずからの内において、従うべき声を聴きとる。その声の表れが良心である。

 

 子どもは目上の人の考えを知らず知らずに取りこんで、当たり前のようにその考えから振る舞います。その目上の人をおのずから愛するゆえにです。かたや、大人は、えらい、すてき、かしこいと思う人に、知ってか知らずか、あやかろうとして、その人の考えを担ぎ上げ、その人の考えから振る舞うこともあります。たとえば「だれそれはしかじかと言っている」という言い回しが「だからあなたもそうしなければならない」というように聞こえることも、しばしばあります。その時には、担ぎあげる人があたかも担ぎ上げられる人のごとくです。また、思想ということばも、しばしば、そうした大人によって担ぎ上げられて、振る舞いのモチーフとなる考えを指すのに用いられます。(「是とする」に当たるのはbegrundenであり、Grund〈基〉から来て、「基礎づける、証明する、理由づける」といった意です。ついでに、わたくしごとですが、小学生のころ、年上のガキ大将から「じゃ、そのだれそれが死ねと言えば死ぬのか?」と言われて、はっと、目の覚める思いをしたことがあります。)

 また、担ぎ上げられるというより、むしろ、こころに浮かんできては、当たり前のように、あるいは仕方なく、振る舞いのモチーフにされる考えもあります。たとえば、土用の丑の日には鰻、大晦日には蕎麦、元日の雑煮は味噌仕立て、いや醤油のおすまし、デサートになっております、禁煙になっております、衣替え、梅雨明け宣言、クールビズ、男なら、女だから、日本人だったら、ロハス、ちょい不良(ワル)、艶女(アデージョ)などなど。また、義理ということばも、おおむね、そのような考えを指して遭われます。(「決まり」に当たるのはGebotであり、gebieten〈命じる〉から来て、「命令、法、掟」といった意です。「必然」に当たるのはNotwendigkeitであり、Not〈困窮、窮乏を〉wendig〈転じつつ〉keit〈であること〉というつくりで、「不可避、不可欠、必須」といった意です。ついでに言うなら、「必然」は「必要」を母とし、考えるを父として生まれる情ないしモードです。)

 そして、人は育ちつつ、ほかのだれでもなく、わたしはこう思う、わたしはこう考えるというところから振る舞うようになります。すなわち、こころがどうにかこうにかひとり立ちして、わたしが良しとする思い(意見)、わたしが是とする考え(主張)が、欲する、振る舞うのモチーフとなります。そして、わたしがわたしの思いを良しとし、わたしの考えを是とする拠り所が、さしあたり「良心」です。しかし、「良心」は、わたしのうちにあっても、わたしに対して従えと求めるものでもあり、それどころか、従わないわたしを咎めるものでもあります。(「良心」に当たるのはGewissenであり、wissen〈知識〉に「集合、総合」を意味するGeが付いたつくりで、いわば「知っていることのまるごと」を指します。そして、その「知っていることのまるごと」が、すんなり従うことのできるわたしには、「良いgut」顔をみせ、すんなり従うことのできないわたしには「悪いschlecht」な顔を見せます。よってGewissenを「良心」と訳すのは片手落ちであり、わたしのGewissenが悪い顔をして、わたしを咎めますが、いたしたかなくそう訳します。)

 さて、二十の段です。

 

 行いの歩みが進められることになるのは、人が、ひとえに外や内の権威による決まりを振る舞いのモチーフにするばかりでなく、その基を見抜こうとつとめて、その基からなんらかの振る舞いのマキシムがモチーフとして内に働きかけるにおいてである。その歩みは、権威によるモラルから、行いを見通して振る舞うへの歩みである。人は、この行いの次元において、行いの必要を探し求め、その必要を知り、その知がみずからを定めるままに任せるようになる。そのような必要が、すなわち

 1.人であることのすべての益を、その益そのもののために、できるかぎり大きくすること

 2.文化の歩み、もしくは、行いにおいて人であることを培い育みつつ、たゆまず完成させていくこと

 3.悟りにおいてつかみとられる、ひとりひとりの行いの目指すところを、現実にすることである。

 

 こころはどうにかこうにかひとり立ちしたところから、いよいよ歩みだします。すなわち、人というものが、つまるところ、いかなるものであるかを見通し、人であることにとって、そもそものこと、なにが必要であるかを見いだして、その必要から振る舞うことです。そのつまるところからの見通しは、見通す人みずからのみか、人という人にあまねく通じるそれであり(見識ということばもそれを指すでしょう)、そのそもそもからの必要は、からだにおいておのずからに気づかれるばかりでなく、精神において明らかに見いだされて引き受けられるそれです。なお、いうところの見通す、見いだす、引き受けるは、いずれも考えるから及び来る精神の光のもとでする人のアクトです。(「マキシム」に当たるのはMaximeであり、ラテン語maxima(regula) 〈最も高い(規則)〉から来て、いうならば「つまりのつもり」です。「格率」や「金言」とも訳されます。また「必要Bedurfnis」については前の回を、「つかみとるauffassen」については、ことに7-a-3の回を見てください。)

 二十一の段です。

 

 人であることのすべての益をできるかぎり大きくすることは、おのずからながら、さまざまな人によって、さまざまにつかみとられるようになる。右のマキシムは、その益についての定かな想いに重なるのではなく、その原理を認めるひとりひとりが、みずからの見解に従って、人であることのすべての益を最も促すことをしようと勤めることに重なる。

 

 いうならば、世のため、人のためという考えが行いのモチーフとなりもします。たとえば自然保護、災害救援、慈善事業、社会活動、宗教活動としてなされるさまざまなことは、ときに特定の個人や団体の利害がからむことがあっても、そもそもは件の考えから起こされているはずです。あるいはまた家の前の道を掃く、草花の世話をするといったことが、さりげなく、たんたんと、件の考えからなされていたりもするでしょうし、仕事や家事のなかでも、ひそかながら、件の考えがものをいっていたりもするでしょう。とにかく、人それぞれが、なによりも世のため、人のためという考えを是として引き受け、そこからすることを見いだして(もしくは思いもうけて)することがありえます。(「人であること」に当たるのはMenschheitであり、Mensch〈人〉heit〈であること〉というつくりで、「人類」とも訳されますが、ことばのつくりをそのまま生かすことにしました。ほかでもありません、わたしたちがさまざまなありようにおいて人でありうることを引き立てようとしてです。なお、そのことばについては、ことに4-b-2の回を見てください。)

 二十二の段です。

 

 文化の歩みは、文化の富に快の情が結びつく人にとっては、さきのモラルの原理のスペシャルケースとなる。その人は、ただ、すべての人の益にも資するものごとが衰えること、なみされることを、ともに引き受けなければならなくなるだけである。しかし、人によっては、文化の歩みのうちに、それに繋がる快の情をさしおいて、行いの必然を見やりもしよう。その場合は、その文化の歩みが、その人にとって、さきのとならぶ、ひとつのことさらなモラルの原理である。

 

 文化という人の営みそのものに、時につれての歩み、もしくは繰り出しの法則、もしくは目指すところがあると唱える人にとっては、そこから人のなすべきことが必然的にきまってきます。そのことが、人にとって快であろうと苦であろうとかかわりなくです。さきに快を求めることを貶す人として、シヨーペンハウアーとハルトマンをあげましたが、かれらがそうするのも、文化の歩みの法則なるものを拠り所にしてです(それについては十三の章で詳しく取り上げられます)。また、ヘーゲルもしばしば引き合いにだされますが、「歴史は人の自由への歩みである」というように説いています(それについては十一の章で取り上げられます)。そして、そのような文化の歩みの法則という考えのはじまりが、聖書のうちに見いだされます。たとえばヨハネ福音書には、「あなたがたはまことを知るであろう、そして、まことがあなたがたを自由にする」ということばが見えます。(「文化」に当たるのはKulturであり、ラテン語cultura〈耕作、育成〉からきます。いうところの文化は、すなわち、そもそもにおいて人であることを培い、育むことにほかなりません。)

 二十三の段です。

 

 すべての益というマキシムも、文化の歩みというマキシムも、想いに基づく。すなわち、人が行いのイデーの内容に与える、定かに生きられたこと(覚え)との重なりに基づく。しかし、考えうる最も高い行いの原理は、そのような重なりを前もって有さず、まぎれのない悟りの源から発して、その後から覚え(生きる)との重なりを探し求めるものである。なにを欲するかの定めが、そこでは、さきの場合と異なる手続きから出てくる。すべての益という行いの原理に惚れている人は、みずからの振る舞いという振る舞いに際して、まずは、すべてにとっての益に、みずからの理想がどう資するのかと問うようになる。文化の歩みという行いの原理を認める人も、同じようにするようになる。しかし、それよりも高いことがある。すなわち、定かないちいちの行いの目指すところから発するのでなく、あらゆる行いのマキシムに、それなりの値を置き、そして、与えられたケ一スにおいて、いずれのモラルの原理がより重きをなすかと、つねに問うようになる。人によっては、与えられたケ一スのもとで、文化の歩みを促すことを、別のケ一スのもとで、すべての益を促すことを、さらに別のケ一スのもとで、みずからにとっての益を促すことを、ふさわしいと見なして、振る舞いのモチーフとすることもあろう。しかし、ほかの定めの基のことごとくが、いよいよ二の位置へと移るにおいて、まっさきに〈考え〉の悟りそのものが見てとられるところとなる。もって、ほかのモチーフが、リードする位置から降りて、振る舞いのイデーの内容こそが、振る舞いのモチーフとして働く。

 

 世のため、人のためとういマキシムであれ、文化の歩みというマキシムであれ、そこからなにかすることを見いだす(思いもうける)ことは、想いに基づいて、もしくは定かに生きられた覚えとの重なりに基づいてなされます。しかし、行いの悟りそのものから覚えを迎えつつ振る舞うによって、悟りと覚えの重なりをつくりだしていくことがありえます。前者は、いわば下(想い、もしくは定かに生きられた覚えとの重なり)をもとに上(なにをするかという〈考え〉、もしくは行いの理想)を定めるという手順であり、逆に、後者は上(なにをするかという〈考え〉、もしくは行いの悟り)から下(覚え)を迎えつつ振る舞うによって、覚えの定かさ(現実、ならびに想い)を生みだしていくという手順です。(「手続き」に当たるのはInstanzであり、ラテン語instantia〈差し迫り〉から来て、「決める場」のことであり、ことに「法廷、訴訟手続き、要求、懇請」といった意です。)

 すなわち、行いの理想は、定かな覚えとの重なりに基づくゆえ、たんにその理想が抱かれるのみでは、その定かな覚えに似通う覚えを迎えることでしか、現実の行いが促されません。また、その定かな覚えに似通う覚えを迎えて、現実の行いがなされても、その現実の行いは、あくまで理想の行いに似通った行いでしかなく、行った人を満ち足らせません。かたや、行いの悟りから行うにおいては、よしんば僅かであっても新たな現実の行いが繰り出され、新たな覚えの定かさが生みだされ、満ち足りた想いが抱かれます。そして、それが、なにかをする、なにかをつくるにおける喜びと励みのもとです。(「理想」に当たるのはIdealであり、「人が実現しようとしている理念〈Idee〉」といった解があります。なお「惚れているhuldigen」と「認めるbekennen」については8-c-2の回を見てください。)

 そして、行いの悟りという最も高いモチーフがリードするにおいては、低いモチーフのいずれにも、それなりの値が置かれます。その高い低いは、音の高い低いと同じであり、これまでの八つの段は、そのままドレミファソラシドのごとく生きられます。すなわち、十六の段に述べられていることを基音のドとすると、そこから十七の段へと辿ることは、二度のインタバル、さらに十八の段は、十七の段と二度、十六の段と三度のインタバルのごとく密きかいます。もちろん、ひとつひとつの段においても、それなりの進行があります。そして、お終いの二十三の段に述べられていることは、はじめの十六の段に述べられていることと、オクターブのかかわりにあります。そのとおり、悟りつつ考える人にとって、行いのモチーフのありようは、まさに「楽想」としていきいきと生きられます。

 この回のお終いには八木重吉の「雨の日」を引きます。

 

 雨が すきか

 わたしはすきだ

 うたを うたわう