· 

略伝自由の哲学第九章b-2

 まずは問いからです。前の回に「質」ということばを用いました。その後で気になり、「たち」について辞書をいくつか引いてみると「顕(た)つ」につきあたりました。

 自然の現象が目に見えるように動きあらわれてくる。また現実にはみえないはずのものが、その姿をあらわしてくる。それらのことが意識にはっきりとらえられるようになる。すべてそのように、意識の上から確かめられてゆくことを「顕つ」という。「立つ」を用いることもあるが、立ち臥しの意ではなく、もののみえはじめること、幽顕にかかわるものをいう。それで煙・虹・音・風・月などについて、「たつ」という。〔名義抄〕に「變タツ。祟タタル」の訓があり、異変のあらわれることを意味する。そのあらわれるものを「たたり」という。のちの「ことだつ」「さかしらだつ」の「だつ」はこの系統の語である。(「字訓」)

 

 はたして「質」は「顕つ」から来ていないでしょうか。そのかかわりについて、なにか知っている人がおりましたら、教えてください。ことばのかかわりはともかくとして、「質」はまさしく「意識の上から確かめられてゆく」ところであり、「幽顕にかかわるもの」です。そして、前の回に出てきた「湧きだすerflilseen」「出てくるhervorgehen」「つくりなすbilden」「生じるsichergeben」は、まさに質が顕つさまを伝えることばです。

 さて、この回は九の章の十の段からです。

 

 わたしたちが行いの弾みを見いだすことができるのは、ひとりの生きるがいずれの元手から織りなされているかを、追って視るによってである。

 

 前の回においては、行い、モラル、倫理の元手、言い換えれば、ありかた、振る舞いかた、生きかたのファクターとして、モチーフと弾みのふたつを分かつことがなされました。そのひとつ、モチーフは、からだとこころをその気にさせる〈考え〉ないし想いであり、もうひとつ、弾みは、その気そのものです。この回は、その弾みについて、もしくは、ひとりの人のからだとこころの性、ないし質について、つまりは、ひとりの人の生きるがなにを元手にしているかについて、つぶさに見ていきます。

 

 ひとりの生きるの一つ目の次元は、覚えるであり、しかも感官での覚えるである。この、ひとりの生きるの領域は、覚えるが、じかに、情や〈考え〉の割り込みを欠いて、欲するへと転じる領域である。ここにおいて見てとられるところとなる人の弾みは、ひとえにもよおしとして引き立てられよう。わたしたちの、低い、富としての必要(食欲性欲など)が満たされるのは、その道においてである。もよおしの生きるの特徴的なところは、いちいちの覚えが欲するを解き放つ、その直接性にある。そのような欲するの定めは、もともと低い、感官の生きるにこそ固有であるものの、より高い感官の覚えへと広げられもする。わたしたちは、外の世のなにごとかの覚えへと、追って考えることなく、その覚えにことさらな情が結びつくこともなく、振る舞いが続くに任せる。習いとなった、人とのつきあいにおいては、ことにそうである。その振る舞いの弾みを、人は如才なさ、または嗜みとして引き立てる。そのように、覚えによって振る舞いをじかに解き放つことが、度重ねてなされるほどに、その人は、まぎれなく如才なさの影響のもとに振る舞うことに適ってくる。すなわち、如才なさが、その人の質となる。

 

 たとえばですが、けばけばしい色を目にして、目を覆いたくなり、やかましい音が聞こえて、耳を塞ぎたくなり、鼻につく臭いがして、鼻をすぼめようとし、温い湯に浸かって、熱さを求め、エビセンを食べて、あとをひき、ラ一メンを注文したのに、隣の人にやってきたヤキソバを視て、ヤキソバのほうが食べたくなり、とにかく味覚、温覚、嗅覚、聴覚、視覚などによって、わたしたちのからだとこころは、それなりに起こります。その起こりを、もよおしと呼びます。もちろん、ヤキソバを注文したのに、隣の人にやってきたラーメンを視て、ラーメンのほうが食べたくなることもありえますし、エビセンを好まない人や、温い湯がいいという人もいるでしょうし、鼻につく臭いも、しばし嗅いでいると、鼻がばかになってしまうことがありますし、やかましい音、けばけばしい色を覚え、それなりにもよおしていても、そのもよおしが覚えられずに、そのやかましい音が止んで、ほっとし、けばけばしい色から逃れて、落ち着き、そこから逆に、それまでおおいにもよおしていたことに気づいたり、そのように耳や目も鼻と同じようにばかになりますし、また、ばかになっている度合いも、ひとりひとりそれぞれです。そして、もちろんのこと、もよおしのままに振る舞うかどうかは、ひとりひとりの人によります。(「もよおし」に当たるのはTriebであり、treiben〈駆り立てる、促す〉から来て、「本能、衝動、欲求、発芽、生長、若枝」といった意です。ここでは生きる(生命)の面を引き立てて、「もよおし」と訳しました。なお、そのことばは「弾みTriebfeder」へと通じます。「必要」に当たるのはBedurfnisであり、bedurfen〈要する〉から来て、「欠乏、欲求、必要」といった意です。ここでは、やむにやまれない面を引き立てて、「必要」と訳しました。)

 いま述べたとおり、味、熱、臭い、音、色はもとより、もよおしも覚えられるところであり、さらに情や想い、ことばや考え、ものやことも、さしあたりは覚えられるところです(3-b,4-b-4)。たとえばですが、顔見知りの人と道で出くわして、ともかく「暑いですね」などと天気の話をもちだし、どうでもいいのに「どちらへ」と続けたり、仕事相手からの電話を、とりあえず「お世話になってます」で受け、「よろしく」で切ったり、ハンバーガー屋さんで「いらっしゃいませ、こんにちわー」が朝、昼、夜にかかわりなく響いていたり、葬式の場で「故人の冥福を祈ります」が思わぬ人の口から出てきたり、若い人たちのあいだで「ありえねぇ」とか「しんじらんなーい」が決まりきったように飛び交ったりしています(リズムはみごとです、前者は短短短長格、後者は短短長格)が、そういうことは、はじめのうちこそ、人まねやお仕着せでなされていても、そのうちに身について、当たり前になります。つまり、じかに覚えに応じ、それにまつわる情も覚えず、それに重なる考えも覚えずになされる振る舞いとして、調子よく、または如才なくなされるようになります。世にいう礼儀や作法にしても、そのことごとくが、そのように調子よく、如オなくもなされえますが、しかしまた、ひとりの人の情と考えから、味わい深く、品よくもなされえます。はたして、どちらになるかは、ひとりひとりの人によります。

 ちなみに、かのサトウさん(5-b-1)は、旅館の仲居さんに「おこころづけ」を渡すことを、みごとにやってのけます。見ていて気持ちがいいものです。きくところによると、それは母上の行いを見い見いするとともに、母上から「あなたもこうするのです」と言われたことによるそうです。「ばかじゃない」「意味わかんねー」などと、若い人からは言われそうですが、ばかでもないし、意味もあるから、わからないと言うまえに、見いだしてほしいと、おじさんは密かに思います。(「如才なさ」に当たるのはTaktであり、ラテン語tactus〈触れる、突く〉から来て、「拍子、調子、歩調、気転、のりのよさ、如才のなさ」といった意です。「嗜み」に当たるのはsittliches Geschmackであり、sittliche〈行い、ありかたの〉Geschmack〈趣味嗜好〉というつくりで、いうならば「行いの味わい、ありかたの品」といった意です。)

 十一の段です。

 

 人の生きるの二つ目の領分は、感じるである。外の世の覚えに、定かな情が結びつく。その情が、振る舞いの弾みとなりもする。わたしが腹を空かした人を視るにおいて、わたしの、その人への同情が、わたしの振る舞いの弾みをつくりなしもする。そのような情として、たとえば恥じらいの情、誇り、名誉心、謙譲心、悔い、同情、復讐心、感謝の心、敬虔の念、忠誠心、愛情、義務感などがある。

 

 旅は道連れ、世は情け、情に悼さしゃ流される、とかくこの国では、むかしほどではなくても、情が振る舞いの弾みとなりがちです。しかし、情は、あくまでも弾みであり、しかも弾みのひとつにすぎません。ちなみに、一の章には「考えは情の父である」とあるとおり、情は考えによって起こります。加えて、もっとも気高い情は、おのずから出てくる情でなく、みずからで稼ぐ情、すなわち「わたしがわたしであることの情、もしくは、みずからの情Selbstgefuhl」です。それについては、ことに8-bの回を見てください。

 十二の段です。

 

 生きるの三つ目の次元が、つまるところ考えると想うである。たんに重ねて考えるによって、想い、または〈考え〉が振る舞いのモチーフとなりもする。想いがモチーフとなるのは、わたしたちが生きる歩みのうえで、多少なりつくりを変えつつも繰り返し覚えられる覚えに、それなりの欲するの目指すところを、たびたび結びつけるによってである。そこから、経験をまったく欠くわけではない人においては、つねづね、定かな覚えとともに、似たケースで仕立てた振る舞い、または視た振る舞いについての想いも、意識のうちに出てくることになる。その想いが、その人にとって、ゆくゆく、こころを決めるたびに、決め手となる手本として浮かびあがる。その想いが、その人の質のひとところとなる。そのように引き立てられる欲するの弾みを、実践経験と呼ぶこともできよう。その実践経験が、しだいにまさしく要領のいい振る舞いへと移る。振る舞いの定かで型にはまった相(すがた)と、それなりの生きるの状況についての想いが、わたしたちの意識においてかたく繋がり、わたしたちが、与えられたケースにつき、経験をもとに重ねて考えることを端折り、じかに覚えを迎えつつ欲するへと移るにおいて、それがこととなる。

 

 右にいうプロセスを、外側から、言い換えれば顕の側から述べてみます。たとえばですが、あるところにはじめて行くときに、地図を頼りにして、目印になるものを見つけながら、まっすぐ進んだり曲がったりして、その場に行きつきます。ふたたび、みたびとやっていくうちに、地図は要らなくなります。いわばこうこうこういうふうに歩いたという想い(経験)が地図の代わりをしてくれます。そして、いくたびもやっていくうちに、いわば通いなれて、ことさらここで曲がろうなどとは思わなくても、いつのまにか曲がるべきところを曲がって、その場に行きつきます。しかし、道々、考えごとをしながら歩いていたり、いつもとは違った目線で歩いていたりすると、思いがけないところに来ていたりします。つまり、どんなに通いなれていても、その場へと行きつくのは、やはり、それなりの目印が目に入っていればこそです。いわば、目印が、ここで曲がろうといった思いの代わりをしてくれています。ついでですが、アイドルやブランドというのも、それなりの人にとっては、そのような目印のひとつであり、それなりの思いの代わりをしています。(「重ねて考える」に当たるのはuberlegenであり、uber〈重ねて〉legen〈置く〉というつくりで、いうならば「思う」のひとつのかたち、すなわち「慮(おもんばか)る」ことです。なお、それについては、ことに4-a-4の回を見てください。「要領のいい」に当たるのはtaktvollであり、takt〈拍子、調子に〉voll〈満ちた〉というつくりで、「気転がきく、如才のない」といった意です。なおtaktischとなると「計画的、戦術的、策略的」といった意になります。)

 十三の段です。

 

 ひとりの生きるの最も高い次元が、定かな覚えの中身を顧みることなく、〈考え〉をもって考えるである。わたしたちは、〈考え〉の内容を、まぎれのない悟りによって、イデーの領域から定める。そのような〈考え〉は、さしあたり、定かな覚えとの重なりをもたない。わたしたちが、覚えを指し示す〈考え〉の、すなわち想いの影響のもとに、欲するへと踏み込むにおいては、その覚えが、〈考え〉をもって考えるという廻り道で、わたしたちを定める。わたしたちが、悟りの影響のもとで振る舞うにおいては、わたしたちの振る舞いの弾みが、 まぎれのない考えるである。まぎれなく考える力を、哲学は理性として引き立てるのが習いであるから、その次元で際立つモラルの弾みを、実践理性と呼ぶことも妥当であろう。その、欲するの弾みを、きわめて明らかに扱ったのが、クライェンビュールである。わたしは、それについて書かれたかれの論を、現代哲学の、つまり批判の、もっとも意義ある産物のうちに数える。クライェンビュールは、いうところの弾みを、実践アプリオリとして引き立てている。すなわち、わたしの悟りからじかに湧きだす、振る舞いの促しである。

 

 たとえば、木という〈考え〉があります。明らかといえばいたって明らかであり、「それってなんですか」と人から問われることは、めったにないでしょうが、しかし、いま、そう問う人がいたら、どうでしょうか。口で言うよりも、木を見てもらうほうがいいでしょう。木は、そこここにありますから。たとえば真という〈考え〉があります。これも同じく、いたって明らかですが、言い表わそうとすると、たいへんです。しかも、見てもらうにしても、たいへんです。というのも、これもこれなりに真、それもそれなりに真という具合で、まだまだ真になりうる余地が、ほとんどどの真にも付いてまわるからです。真という〈考え〉は、そのように、かずかずの覚えに重なりますし、いつなりとも重なりきらないところを残しています。それに引き換え、木は、どの木も難なく木であり、ひとつの木を、これぞまさしく木であると言い切るには、ほかの木に目をつぶるしかなさそうです。

 そして、これは『自由の哲学』の書き手が後に言っていることですが、子どもに目をむけると、歯が生え変わるまでの子は、それとは意識しないが、世は善しという「承諾Annahme」をもって生き、思春期を迎えるまでの子も、それとは意識せず、世は美しいという「前提Voraussetzung」をもって行い、思春期からの若者は、世は真であるのを見いだす質が、きわだちはじめる。はたして、その「承諾」も「前提」も質も、悟りからじかに湧きだす振る舞いの促しでなくしてなんでしょうか。(「促し」に当たるのはAntriebであり、Trieb〈もよおし〉から来て、「原動力、推進力」といった意です。)そして、大人は、悟りを悟りとして意識することができます。もちろん、意識しようとすればですが。つまり、理性、もしくは、〈考え〉をもって考える力、もしくは、まぎれなく考える力を、意識して使うことができます。もちろん、その力に大きい小さいはありますが。(「理性」に当たるのはVernunftであり、vernehmen〈察知する、聞き取る、聞き分ける〉から来ています。)

 そして、十四の段です。

 

 明らかながら、そのような促しは、もはや厳密なことばの意味では質の内に数えることができない。そもそも、そこにおいて弾みとして慟くものは、もはや、たんにわたしのうちの、ひとりなりのものではなく、イデーとしての、従ってあまねき、わたしの悟りの内容である。わたしは、その内容のふさわしさを、振る舞いの基にして起点と視るや、欲するへと踏み込む。その〈考え〉が時の上であらかじめわたしの内にあろうとも、振る舞う矢先にわたしの意識に出てこようとも、すなわち、その〈考え〉がすでに質としてわたしの内にあろうとなかろうと同じである。

 

 ひとりの人の生きるの元手として、いわば低いのから高いのへ、すなわち、覚える、感じる、想う、思う、考えるを追って視ましたが、覚えるから思うまでは、からだとこころのなりたちに結びついていますが、考えるはそれに結びついていません。つまり、覚えから思いまでは、ひとりひとりなりであっても、〈考え〉はそうではありません(それについては、ことに五の章を見てくださいしそして、〈考え〉は、悟りによって考えるのうちへと及び、経験によって思う、想うのうちへと入り、思う、想うのうちにある〈考え〉が、まぎれなく考えるにより、あらためて考えるのうちへと引き上げられ、あらためで悟りのかたちをとります。その、ひとえにわたしの悟りによる〈考え〉、もしくは、こころとからだのなりたちを凌ぐ〈考え〉も、こころとかたらだのなりたちに結びついている質、すなわち、覚え、感じ、想い、思いからの弾みと同じく、わたしの欲するを促しもします。もちろん、その促しのままに振る舞うかどうかは、いよいよもってひとりひとりによります。