この回は九の章の二十四の段からです。
わたしたちは質の次元のうちの最も高いものとして、まぎれのない考える、実践理性として働きかけるものを引き立てた。そして、モチーフのうち、わたしたちは最も高いものとして、〈考え〉の悟りを引き立てた。さらに審(つまびら)かに重ねて考えてみれば、ただちに明らかになるが、行いのこの次元においては、弾みとモチーフが合わさる。つまり、前もって定まった質も、外から規範として受け取られる行いの原理も、わたしたちの振る舞いに働きかけない。その振る舞いは、すなわち、なんらかの規律に従ってなされる型に嵌(はま)ったものでなく、また人が外からの押し付けに応じてオートマチックに執り行うものでもなく、もっぱらその理想としての中身によって定まるものである。
振り返れば、これまでの三回において、欲する(ないし振る舞う)の弾み(もしくは欲するをそそる質)とモチーフ(すなわち欲するを促す思い、考え)を見てとってきました。まず弾みとしては、
1. もよおし(如才なさ、嗜み)
2. 情
3. 想いとなった振る舞い(実践経験)
4. まぎれのない考える(実践理性)
の四つの次元があり、その四つのそれぞれは、わたしたちの生きるのファクター、
1. 覚える
2. 感じる
3. 思う(考える)
4. 悟る
から織りなされています。そして、モチーフとしては、
1. エゴイズム(みずからの益という思い、ないし考え)
a. まぎれのないエゴイズム
b. 世知
c. 幸せへの願い(ないし望み)
2. 権威を拠り所とする思い、ないし考え
d. 決まり(および良心の声)
3. あまねき見通しによるマキシム
e. 世のため、人のためという考え
f. 文化の歩みという考え
g. 〈考え〉の悟り
という三つないし七つの次元があり、1〜3のそれぞれでは、
1. からだ
2. こころ
3. 精神
がリードする位置に立ちますし、a〜gのそれぞれでは、『自由の哲学』の書き手が後に書いた『テオゾフィー』において引き立てている人のなりたちの節々、
a. フィジカルななり
b. 生命のなり
c. こころのなり
d. こころ
e. 精神自己(精神そのもの)
f. 生命の精神(生きた精神)
g. 精神の人
が、いうならば主たる器となっています。そして、前の回のお終いに述べたことですが、目や耳などの感官による覚えと行いの悟りとのあいだは、いわばオクターブのごとく生きられます。さて、すでに気づかれていることでしょうが、悟りは、いくら振り返っても想い起こすことができません。悟りは、あらためて考えつつでこそ悟られます。言い換えれば、悟りは、つねにリアルタイムです。(「重ねて考えるuberlegen」については、ことに4-a-4の回を見てください。)
そして、あらためて考えてみると、こういうことが立ちどころに悟られます。すなわち、まぎれのない考えると〈考え〉の悟りは、二つで一つです。言い換えると振る舞いそのものの悟りは、モチーフであり、かつ弾みであり、その振る舞いは、質からの弾みに流されての振る舞いでもなく、余所から決まりとして受け取っただけの〈考え〉、あるいは覚えとの重なりをもった〈考え〉をモチーフにしての振る舞いでもなく、一重に悟りによって定かになり、さしあたりは覚えとの重なりをもたず、まさしくただの理想でありつつ、欲するを促します。(「規範」に当たるのはNormであり、ラテン語norma〈指金(さしがね)、曲尺(かねじゃく)〉から来て、「人が共に生きるうえで、あまねく認められ、拘束力のあるルール」という解があります。「規律」に当たるのはRegelであり、ラテン語regura〈物指し、尺度〉から来て、「法則性から導かれるか、経験から得られるか、合意によって決められた拘束力のある指針」という解があります。)
さらに、悟りの中身は、まぎれなく考えつつ定められ、定められた限りで思われ、思われる限りで分かります。なんだか分かったような、分からないような言い方ですが、いかがでしょう。わたしたちのつねづねの意識である〈わたし〉の意識、もしくは、こころの通う生きたからだによって生みだされる意識である自己意識(9-a-1, 9-a-2)にとって、悟りの中身は、まさに分かったようで分からないものです。たとえば、そもそも、あなたは、どういうつもりなのですかと問われて、答えに窮したりすることがないでしょうか。また、なにかをするにおいて、ああではない、こうではないというようにネガティブなかたちでは分かるものの、いざポジテイブなかたちで言い表わそうとすると途方に暮れたりすることがないでしょうか。あるいはまた、人の振る舞いを見て「分かる」と感じ入ったり、身につまされたりするものの、その実、なにが分かったのかと訊かれても、これといって言いようがなかったりすることがないでしょうか。そもそも、悟りは、まぎれのない精神のことであり、悟りの中身は、まぎれなく考えられて定められた限りが、頭で考えられるようになり、頭で考えられた限りが、胸で思われるにいたり、胸で思われた限りに応じて、手足がふさわしく動くようになり、手足が動くようになった限りに応じて、振る舞いに湛えられるようになります。よってまた、悟りの中身は、振る舞われて想われる限りで、いわばことのさまとなり、親しく味わい深く語られ、想われつつ考えられる限りで、いわばことのがらとなり、明らかに分かりやすく説き明かされます。なお、分かりやすくというのは、必ずしも平易ということではありません。念のため。(「中身」に当たるのはGehaltであり、halten〈持つ、保つ〉から来て、「容量、含量、実質」といった意です。ついでに、前の回で「世知」というモチーフにいろいろな味わいがあると言いましたが、ほかのモチーフにもさまざまな味があります。たとえば、理論をそっくりそのまま受け売りする人が、砂を噛むように味気なく感じられたり、思想を担ぎ上げて、そこから他の人を詰る人が、苦々しく感じられたり・・・。)
二十五の段です。
そのような振る舞いは、モラルを悟る力を前提としている。いちいちのケ一スに向けて、ことさらな行いのマキシムを生きる力が欠ける人は、まことひとりなりの欲するにも到りはしない。
振る舞いの悟りからの振る舞いには、ほかでもなく振る舞いのモチーフを悟る力が欠かせません。なお、いうところのモラルは、振る舞いのモチーフにほかなりません。
そして、ケ一ス・バイ・ケ一スのケ一スに向かいつつ、振る舞いのモチーフを悟りつつ考えて定めて、マキシム、つまりのつもりとし、そのマキシム、つまりのつもりをいきいきと迎えて、理想とする、そのことをもってこそ、まさしくひとりなりの欲する、まことインディビジュアルな欲するが、ありありとあるようになります。
二十六の段です。
その行いの原理の、まさに逆であるのが、カントのである。すなわち、汝の振る舞いの原則がすべての人に通用するよう振る舞え。この一文は、ひとりなりの振る舞いの意気込みすべての死である。わたしにとって要でありうるのは、すべての人が振る舞うであろうようにではなく、わたしにとって、ひとりなりのケ一スに、なにをするかである。
「汝du」というのは、この場合、わたしがわたしに言い聞かせるときの、言い聞かされるわたしのことです。で、カントの言わんとするところを、略伝のことばで言い表すと、こういうことになるでしょうか。すなわち「わたしが悟ったあまねきイデーは、あまねさをもってわたしに迫る。」もしくは「あまねきイデーは、客として、主にあまねくあれと命じる。」しかし、ありていに見てとれば、こういうふうにしか言いようがありません。すなわち「あまねきイデーは、わたしの悟る力によって、わたしなりに受けとられる。」そして「わたしがイデーを引きとるのは、イデーがわたしをそそるからである。」おそらく、カントの生きていた頃には、件の文を、気高く、ありがたいことのように頂いて実践する人も、そこそこにいたのではないでしょうか。その実践は、むなしく、いたらないみずからを見いだすか、いたずらに思い上がった人を生みだしたでしょう。なにしろ、件の文が実践されたら、こういうかたちをとることになるからです。「こんなとき、あらゆる人がもっともだと思う振る舞いは、なんだろう。」なんだか、冷や水を浴びせられたようで、する気が失せそうではありませんか。あるいは「わたしはこう思って振る舞う、この思いはあらゆる人がもっともだと思うはずだから。」なんだか、かえってひとりよがりな気がしませんか。(「意気込み」に当たるのはAntriebであり、an〈触れて〉treiben〈駆り立てる〉から来て、いわば「もよおし〈Trieb〉からの欲り」です。「要」に当たるのはmaßgebendであり、maß〈尺度、基準を〉gebend〈与えつつ〉というつくりで、「尺度となる、基準となる」といった意です。)
二十七の段です。
上っ面な判断からは、右に述べるところに対して、こんなものいいがつくかもしれない。振る舞いが、ひとりなりに、ことさらなケ一スとことさらな状況に応じてかたどられてあり、なおかつ同時に、まぎれのないイデーとしで悟りから定まっているなど、どうしてありえよう。そのものいいは、行いのモチーフと振る舞いの覚えられる内容の取り違えに基づく。後者はモチーフでありうるし、またたとえば文化の歩みやエゴイズムからの振る舞いなどにおいてはモチーフであるが、まぎれのない行いの悟りを基にする振る舞いにおいてはモチーフではない。わたしの〈わたし〉は、まなざしを、おのずからながらその覚えの内容に向けるものの、〈わたし〉がその内容によって定まるには任せない。その内容は、ただ知るにおける〈考え〉をつくりなすのに用いられるまでであり、振る舞うに要するモラルの〈考え〉を、〈わたし〉は客から引とるのではない。わたしが対し合う定かな状況からの、知るにおける〈考え〉が同時にモラルの〈考え〉でもあるのは、わたしが定かな行いの原理の立場に立てばこそである。もし、わたしが文化の育みというあまねきモラルだけを地盤にして立つのを好むとしたら、かくかくと決まったルートをもって立ち回るであろう。わたしが覚え、わたしを領することのいちいちから、同時に行いの義務が生じる。すなわち、わたしなりに力を注いで、当のことを文化の育みに役立たせる義務である。ひとつのこと、ひとつのものの自然法則としてのかかわりを、わたしに拓く〈考え〉のほかに、そのもの、そのことは行いの標をも引っさげていて、そこには、わたし、モラーリッシュなものにとって、どう処すべきかという倫理の指図も含まれている。その行いの標は、その領域においては真っ当である。その行いの標は、しかし、さらに高い立場においては、わたしへと具象のケ一スに対して開けるイデーと合わさる。
モチーフにも弾みにも高い低いがあるように、分かるにも浅い深いがあります(5-d-1~5-d-3)。浅いだけで深いところを見落とせば、あさはかと誹(そし)られもしますし、深いばかりで浅いところが目に入っていないと、深みに嵌って、身動きがとれなくなったりもします。(「上っ面な」に当たるのはoberflächlichであり、ober〈上の〉fläche〈面〉から来て、「うわべだけの、皮相な」という意です。)
振る舞いは、たしかに、場のありようによって決まってきます。それだけを見てとる人には、振る舞いがなおかつ悟りから決まるというのは、おかしいではないかと思われるかもしれません。しかし、悟りから決まるのは、振る舞いのモチーフとして考えられ、思われるところであり、場のありようによって決まるのは、振る舞いの覚えとしてとらえられ、想われるところです。
たとえば、ある役を演じるために稽古をします。台本によって場の状況はもとより、振る舞いもセリフも決まっています。しかし、どう演じるかは、演じる人が稽古をするなかで決まってきます。身の置き方、間合い、のりぐあい、肚づもり、心づもり、つまりのつもり、ひとつひとつやってみながら、「こうじやない」「どこかおかしい」の繰り返しのなかで、だんだんにつかみとられていきます。「こうじゃない」の「こう」は、振る舞いの覚えとしてつかみとられ、想われるところであり、「じゃない」は、まだ覚えられないものの、考えられ、思われるところからのものいいです。また「どこかおかしい」の「どこか」は、まだ考え、思いの及んでいないところです。そして、いつか、「ここだ」というように閃いて、つかみとられ、つくりかえられます。(「知るにおける〈考え〉」に当たるのはErkenntnis begriffであり、「モラルの〈考え〉」に当たるのはmoralischer Begriffです。そしてBegriff〈考え〉はbegreifen〈とらえる〉から来て、「とらえられる」ところです。それについては、ことに3-bの回を見てください。)
ただ、だれか理想とあおぐ役者をまねようとしていたら、話はべつです。そのときには、「ここはこう」というように、そのつど理想の振る舞いがちらつき、道標となってくれるでしょう。あとは、その道標にできるだけきちんと沿うように立ち回るだけで済みます。(「標」に当たるのは Etiketteであり、古フランス語 etiqette〈立て札〉から来て、「ラベル」の意です。なお、それについては9-b-2の回の「実践経験」の項を合わせて見てください。)
さて、下手くそながらも、舞台に立つ日は、いやおうなくやって来ます。はらはらどきどきです。が、そんなことはそぶりにも出さないようにして、役を演じます。あるところで思わずうけたりもします。次の日の舞台で、そのうけたシーンに来て、ふと、今日もうけようと思い、昨日と同じょうに演じたものの、客席からはシラーとした空気が帰ってきます。で、あさはかなわたしを思い知らされます。ほかでもありません、わたしの〈わたし〉からです。が、そんなことも、おくびにさえ出すわけにはまいりません。その、〈わたし〉がわたしに思い知らせる、あさはかさという〈考え〉には、しばし待ってもらいます。つまり、その〈考え〉を引きとるのは、やがて舞台がはねてからのことです。(「わたしの〈わたし〉」に当たるのはmein Ichであり、この言い回しそのものが、「わたしがわたしに」ということのありようを伝えています。なお「引きとるentnehmen」については7-a-3の回を見てください。)
なるほど、芝居と実生活は違います。しかし、その違いは、ことの次第の違いにすぎません。ことそのことは同じです。すなわち、芝居においては、台本、稽古、本番と続くプロセスを役者が引き受けますが、実生活においては、当人が登場し、その初めから終わりまでがずっと本番であり、本番のさなかに稽古があり、台本が練られつつ定かになっていきます。ついでに、実生活での稽古に当たることについては、後の章において詳しく取り上げられますし、台本に当たることについては、『テオゾフィ一』においてダイレクトなかたちで述べられています。(「モラーリッシュなもの」に当たるのはmoralisehes Wesenであり、いわば「ある、生きる、動くだけに尽きず、モチーフと弾みをもって振る舞うもの」、すなわち人のことであり、〈わたし〉のことです。そして、役者もまたモラーリッシュなものに他なりません。そうではないように見られがちですが。)
二十八の段です。
人は悟りの才に応じてさまざまである。ある人にはイデーがたちどころに湧きくるし、またある人は労してイデーを稼ぐ。人が生き、人の振る舞いの現場となる状況も、劣らずさまざまである。ひとりの人がどう振る舞うかは、すなわち、その人の悟りの才が定かな状況に対してどう働くか、その働きかたに懸かるようになる。わたしたちにおいてものをいうイデーの和、わたしたちの悟りのリアルな内容をなすのは、イデーの世のあまねさの下、その人その人のうちに、その人なりのありようであるところである。その悟りの内容が、振る舞うへと移りゆく限りにおいて、人ひとりの行いの中身である。その中身を生ききらせることが、次のことを見抜く人の最も高いモラルの弾みであり、同時に最も高いモチーフである。すなわち、ほかのモラルの原理のすべてが、つまるところ、その中身において、ひとつに合わさることを見抜く人のである。その立場を倫理のインディビジュアリズムと呼ぶこともできよう。
ひとりの人のまさしくひとりの人であるところは、悟りの才に窮まります。わけてもモラルを悟る才は、ひとりひとりそれぞれです。そして、当の人のモラルを悟る才は、その人に引き受けられて、二十五の段にいう「悟る力」ないし「マキシムを生きる力」を生みだします。なお『テオゾフィ一』とのかかわりで言うと、その才と力は「精神のなりたち(精神自己、生命の精神、精神の人)」すなわち「物質人〈Mensch〉の対である精神人〈Geistmensch〉」を器としています。(「才」に当たるのはVermögenであり、モードの助動詞mögen〈好む〉ー英語のmayに当たりますーから来て、「才能、資産」といった意です。「力」に当たるのはFähigkeitであり、fähig〈することができる〉から来て、「能力、力量」といった意です。すなわち「才Vermögen」は、人に授かっているものであり、「力Fähigkeit」は、人が培って得たものです。)
その、ひとりひとりそれぞれの悟りの才が、同じくひとりひとりそれぞれの定かな場の状況に応じて働いてこそ、まさにひとりひとりの欲するがありありとあるようになり、押しも押されもしないその人その人の振る舞いがリアルになされるようになり、そのことをもってひとりひとりの悟るカ、その人その人なりにマキシムを生きる力が育まれていきます。(「リアルに」に当たるのはrealであり、ラテン語realis〈ことがらどおりの〉から来ています。)
その悟る力、マキシムを生きる力が育まれるにつれて、あまねく広やかなイデーが、その人なりに生き生きとものをいうようになります。(「ものをいう」に当たるのはwirksamであり、wirk〈働きが〉sam〈ある〉というつくりで、「現実Wirklichkeit」と根を同じくしています。それにつては、ことに5-c-1の回を見てください。)
そして、その、その人なりに深く生き生きとものをいう、あまねく広やかなイデーは、どの次元のモチーフとも、いわば和音のごとく、ひとつに響きき交うものでもあります。そのことを見抜く人は、その、その人なりに深く生き生きとものをいう、あまねく広やかなイデーが、たわわに残りなく振る舞いにおいて湛えられるようになることを目指します。すなわち、そのことが、その人のつまりのつもりとして亮々と打ち響きます。
さて、この回のお終いには、芭蕉の句を引きます。
秋深き隣は何をする人ぞ