前の回は、〈考え〉の内容が出てくる矢先のかたち、悟りという、まぎれのない精神のことを取り上げました。この回は、その、まぎれのない精神のこと、悟りが、こころのかよう生きたからだに、どうかかわるのかを見ていきます。まず、四の段です。
人が囚われなく見るにおいて、その、考えるが悟りであることについてのまことを、認め得るまでに漕ぎ着けたならば、人のからだとこころのなりたちを観るに向けても、道が自由に得られる。人が、このことを知る。すなわち、そのなりたちは、考えるのことにつき、いささかの働きもなしえない。そのことには、さしあたり、まったく顕なことのありようがかちあうように見える。人の考えるは、ふつうの経験にとり、そのなりたちについて、かつ、そのなりたちによってこそ出てくる。その出てくるが強くものをいうゆえに、その出てくるをまことの意義において見抜くことができるのは、考えるのことたるところに、そのなりたちが、なんらの役割りも演じていないことを、知った人こそである。その人においては、しかしまた、このことも意識から抜け落ちはしなくなる。すなわち、人のなりたちが、考えると、いかにかかわるかである。人のなりたちは、つまり、考えるのことたるところにいささかの働きもせずに、考えるの働きが出てくるにおいて、引き下がる。そのなりたちは、そのなりたちのする働きを、とりやめる。そのなりたちは、場を明け渡す。そして、自由になった場に、考えるが出てくる。考えるにおいて働く、ことたるところは、二重のことを賄う。ひとつに、それは、人のなりたちがする働きを押し退け、ふたつに、それは、その場に座る。そもそも、ひとつ目の働き、すなわち、からだのなりたちの押し退けにしても、考えるのする働きから生じることである。しかも、押し退けられるのは、からだのなりたちのひとところ、つまり、考えるが現れるべく、備えをするところである。人は、そこから、このことを、まさに視る。すなわち、いかなる意味において、考えるが、からだのなりたちに、その対の相(すがた)を見いだすかである。そして、人が、そのことを、まさに視るならば、その対の相の、考えるにとっての意義を知りそこねることもなくなる。人が軟らかな土のうえを歩けば、歩いた跡が土に穿(うが)たれる。人は、こんなことを言う気にはなるまい。すなわち、足跡が、土の力によって、下のほうから生みだされたとか。人は、こう言うであろう。すなわち、その力は、歩いた跡が生じるに、いささかも与っていないと。同じく、考えるのことたるところを囚われなく見てとった人は、こう言おう。すなわち、からだの器官のなりたちにおける跡は、考えるのことたるところに、いささかも与っていない。跡が生じるのは、考えるが、生きたからだによって現れるべく、備えをするによってである。
くりかえし、一の文から見ていきます。
人が囚われなく見るにおいて、その、考えるが悟りであることについてのまことを、認め得るまでに漕ぎ着けたならば、人のからだとこころのなりたちを観るに向けても、道が自由に得られる。
考えるがそもそもいかなることかを見てとるは、からだにも、こころにもよらず、ひとえに〈わたし〉のする精神の働きにより、直接で、明らかで、広やかなこととなります。そして、その、直接で、明らかで、広やかなことのうちに、すなわち悟りのうちに、こころのかよう生きたからだを見てとる道が開けます。その道は、行くも行かぬも〈わたし〉しだいである、すなわち自由な道です。が、しかしまた〈わたし〉のほかには行く人のない、すなわち細い道であり、そこここにもろもろのしこりやこわばりが立ちはだかる、すなわち険しい道でもあります。そして、いかがでしょう、いまに生きる人として、わたしたちは、その自由な道を、すでに歩んではいないでしょうか。その道の細さ、険しさを、身をもって生きてはいないでしょうか。(「漕ぎ着ける」に当たるのはhindurchringenであり、ringen〈闘い〉hindurch〈抜く〉というつくりです。なお8-bの回では「sich durchringen」も「漕ぎつける」と訳してあります。比べてみてください。「からだとこころのなりたち」に当たるのは、leiblich seelische Organisationであり、leiblich〈からだにおける〉seelische〈こころの〉Organisation〈なりたち〉という言い回しです。なおLeibは生きたからだを指します。ついでに、生きていないからだ、いわゆる物体を指すのはKorperです。そしてSeele〈こころ〉とOrganisation〈なりたち〉については、ことに3-bの回を見てください。)
二の文です。
人が、このことを知る。すなわち、そのなりたちは、考えるのことにつき、いささかの働きもなしえない。
考えるのことたるところ、すなわち悟りの直接さ、明らかさ、広やかさは、頭が痛くても、胸が痛んでも、からだが弱ろうと、病もうと、老いようとも、朝に陽が昇り、夕に陽が沈むのと同じく、すこしも変わらないではありませんか。(「考えるのこと」に当たるのはWesen des Denkensであり、des Denkens〈考えるの〉Wesen〈こと〉というつくりで「考えるということ」と言い換えることもできますが、前の回の「木の〈考え〉Begriff des Baumes」と同じく、ここでも「生成格」を生かそうとしました。「働きをなす」に当たるのはbewirkenであり、be〈まさに〉wirken〈働く〉というつくりで、「働きにより、なにごとかを引き起こす」といった意です。なおwirken〈働く〉については、ことに4-a-2,5-c-1の回を見てください。)
三の文です。
そのことには、さしあたり、まったく顕なことのありようがかちあうように見える。
悟り、すなわち考えるのことは、まぎれのない精神のことであり、からだとこころを交えずになされます。そのかぎりでは、まさに密のことであり、表からはなにも知られません。しかし、そのことは、こころとからだへも働きかけます。その働きかけによって生じることはからだに表れでて、顕のこととして知られます。(「顕な」に当たるのはoffenbarであり、offen〈オープンに〉bar〈なりうる〉というつくりで、「明らかな、目に見える、公然の、周知の」といった意です。なお「おもて(表、面)については、6-dの回を見てください。)
四の文です。
人の考えるは、ふつうの経験にとり、そのなりたちについて、かつ、そのなりたちによってこそ出てくる。
ふだん、人は、頭をひねったり、首をかしげたり、腕を組んだりというように、からだのそこここを支えにして考えますし、考えは、腑に落ちたり、骨身にしみたり、肩に重くのしかかったりというように、からだのそこここに表れます。また、胸の思いや腹づもりというのも、からだに表れる考えのほかではありません。(「ついて」に当たるのはanであり、英語のonに通じ、「よって」に当たるのはdurchであり、英語のthroughないしbyに通じます。)
五の文です。
その出てくるが強くものをいうゆえに、その出てくるをまことの意義において見抜くことができるのは、考えるのことたるところに、そのなりたちが、なんらの役割りも演じていないことを、知った人こそである。
考えるには、顕と密の面があります。そして、人が顕の面にかまけると、密の面が見過されます。言い換えれば、考えるは、そもそもにおいて精神のことであり、そのことからの働きが、こころとからだに及んで、おもてに表れでます。そして、人がこころとからだのことにかかりきりであると、精神のことが見落とされます。
六の文です。
その人においては、しかしまた、このことも意識から抜け落ちはしなくなる。すなわち、人のなりたちが、考えると、いかにかかわるかである。
はたして、考えるは、こころとからだにいかなる働きかけをしているでしょうか。そのことも、まさに考えるを見るにおいて、まさにその見る意識のうちに入れることができます。
七の文です。
人のなりたちは、つまり、考えるのことたるところにいささかの働きもせずに、考えるの慟きが出てくるにおいて、引き下がる。そのなりたちは、そのなりたちのする働きを、とりやめる。そのなりたちは、場を明け渡す。そして、自由になった場に、考えるが出てくる。
たとえば前の回に引いた、こねずみしゅんの「かんがえごと」を例に考えてみます。「こねずみは みんな どんぐりをかじりながら かんがえごとをする ひとつかじって・・・・はてな?」の「・・・・」のあいだに、しゅん君のこころとからだには、なにごとかが生じつつあるのではないでしょうか。言うならば、まず、なにかのきざし、そして、それに応じる動き、たとえば「むむむむ」「あれれれ」「やややや」といった、こころのうごめき、からだのもよおし。それとともに、かじる動きのほうは、収まりつつあるのではないでしょうか。そして、きざしは考えとして明らかになり、応じる動きはしっかり問いとなって、からだに表れる(色に出る)にいたり、その問いを、しゅん君は、はっきりとことばによって表しもします。「はてな?」しゅん君は、さらにかじります。「ふたつかじって・・・・なるほど みっつかじって・・・・そうか よっつかじって・・・・でもね」きざしもさまざまなら、応じる動きもいろいろであり、そのいろいろな応じる動きによって、こころとからだは疲れます、健やかな具合にも、おかしな具合にも。そして、しゅん君の場合は、きっと、健やかに疲れたからだで、心地よく眠ることができるでしょう。なにしろ、しゅん君の「しゅん」は、アクテイブさのことでしょうから。
八の文です。
考えるにおいて働く、ことたるところは、二重のことを賄う。ひとつに、それは、人のなりたちがする働きを押し退け、ふたつに、それは、その場に座る。
しゅん君は、お終いに、こう言っています。「きょうは 10こ かじったので 10こぶん かんがえごとが できた」はたして、そう言えるのは、からだのそこここに出てきた考えるが、まさにそこここに座っているからではありませんか。(「座る」に当たるのはsich setzenであり、sich〈みずからを〉setzen〈置く〉という言い回しで、「すわる、席につく、鎮まる、沈む」といった意です。)
九の文です。
そもそも、ひとつ目の慟き、すなわち、からだのなりたちの押し退けにしても、考えるのする働きから生じることである。
始まりに立ち返ります。どんぐりをかじるは、からだをもってするアクションですが、それだけに尽きるでしょうか。しゅん君は、どんぐりをかじるのに、すくなくてもかじろうとして(思って)かじるのではないでしょうか。つまり、考えるは、はや、かじるまえから繰り出しつつ、からだへと働きおよんではいないでしょうか。
十の文です。
しかも、押し退けられるのは、からだのなりたちのひとところ、つまり、考えるが現れるべく、備えをするところである。
しゅん君は、どんぐりをかじろうとして、どんくりを手にし、口へと運びます。もしも、かじろうとする(思う)が、手や口でなく、足や尻尾に働きおよんでいるなら、はや、かじる前から、足がむずむずしてきたり、尻尾がうごめきだしたりすることにもなるでしょう。(「現れる」に当たるのはerscheinenであり、er〈まさに〉scheinen〈輝く、映える、見える〉というつくりで、いわば「見る」の対です。)
十一の文です。
人は、そこから、このことを、まさに視る。すなわち、いかなる意味において、考えるが、からだのなりたちに、その対の相(すがた)を見いだすかである。
いまは、こういう考えが幅をきかせます。すなわち、覚えがこころに印され、脳に貯えられる。その覚えが脳から取り出されて、想いとなる。その想いが相を抽(ぬ)き去られて、〈考え〉となる。よって、脳のなりたちと働きを明らかにすれば、想い、〈考え〉、つまりは意識のなんたるかも分かるであろう。そういう考えからすると、考えは脳のことのおもかげということになります。
では、そういう考えも脳のことのおもかげでしょうか。ならば、そうは考えない人もいるのは、どうしてでしょう。脳のなりたちがおかしくなり、働きがくるっているからでしょうか。
脳を調べるのもよろしいでしょうが、そもそものこと、人が脳を調べるのは、脳がいかなるものであるかと考えるからではないでしょうか。ならば、脳を調ベる前に、考えるを調べるのが筋ではないでしょうか。そして、考えるを調べてみればまさに考えるから、このことも明らかになります。すなわち、脳はもとより、からだはまるごとが考えるに適っています。だからこそ、わたしたちは、からだのそこここに尋ねつつ、さまざまなものことを追って考えることができます。その意味において、からだは考えるのおもかげを湛えます。(「対の相」に当たるのはGegenbildであり、Gegen〈対し合う〉bild〈相〉というつくりで、「模型に対する原型、模範、原本、写本、コピー」といった意です。ちなみに、前の回に出てきた「残像」に当たるのはNachbildであり、Nach〈後に残る〉bild〈相〉というつくりです。なお「相Bild」については、ことに4-b-3の回を見てください。)
十二の文です。
そして、人が、そのことを、まさに視るならば、その対の相の、考えるにとっての意義を知りそこねることもなくなる。
たとえば、身に覚えがあると言いますが、その覚えは、想いであって、考えるのおもかげです。そして、想いを新たにすると言いますが、想いは、ひとたび生じてからも、たびかさねて考えるの現れる場となり、そのたびごと新たに蘇ります。
十三、十四、十五の文です。
人が軟らかな土のうえを歩けば、歩いた跡が土に穿たれる。
人は、こんなことを言う気にはなるまい。すなわち、足跡が、土の力によって、下のほうから生みだされたとか。
人は、こう言うであろう。すなわち、その力は、歩いた跡が生じるに、いささかも与っていないと。
そして、十六の文です。
同じく、考えるのことたるところを囚われなく見てとった人は、こう言おう。すなわち、からだの器官のなりたちにおける跡は、考えるのことたるところに、いささかも与っていない。跡が生じるのは、考えるが、からだによって現れるべく、備えをするによってである。
わたしたちは、からだのそこここに尋ねつつ、さまざまなものごとを追って考える(偲ぶ)ことができるのみか、なにかをしようとして(思って)、上手下手はあれ、それなりにからだを用いることができます。その意味においても、からだは考えるのおもかげくを湛えます。さらには、胆が座る、腰がしっかりする、動きが板につくとも言いますが、それは、それそのことで安らう考える(9-a-1, 3c)のうちに、胆や、腰や、手足や、手足と触れあう板までが受け入れられているからではありませんか。(「からだの器官のなりたち」に当たるのはLeibesorganismusです。Organismus〈器官のなりたち〉については、4-a-1の回を見てください。)
五の段です。
しかし、ここでひとつ有意義な問いが浮かび上がる。考えるのことに人のなりたちが与っていないなら、そのなりたちは、人というもののまるごとのうちにおいて、いかなる意義を有するのか。さて、そのなりたちのうちに考えるによって起こるところは、なるほど、考えるのことたるところにはかかわっていないが、その考えるから〈わたし〉の意識が生じることには、どっこい、かかわっている。考えるのことのうちに、なるほど、現実の〈わたし〉があるが、しかし、〈わたし〉の意識はない。そのことを見抜くのも、やはり囚われなく考えるを見る人である。〈わたし〉は、考えるのうちに見いだされるが、〈わたし〉の意識が出てくるのは、あまねき意識において、右に引き立てた意味における考えるの働きの跡が穿たれるによってである。(すなわち、からだのなりたちによって〈わたし〉の意識が生じる。しかし、そのことを、たとえば、ひとたび生じた〈わたし〉の意識は、からだのなりたちに左右されるままであるといった言い立てと、取り違えないでいただきたい。ひとたび生じてからも、それは考えるに受け入れられて、ひきつづきその精神のことたるところに与る。)
くりかえし、ーの文から見ていきます。
しかし、ここでひとつ有意義な問いが浮かび上がる。
想い、思いが、考えるのおもかげであるように、問いもまた考えるのおもかげです。すなわち、問いが出てくるのも、考えるが、こころのかよう生きたからだに働き及べばこそです。さて、ここにいう問いは、いかなる内容を有しているでしょうか。
二の文です。
考えるのことに人のなりたちが与っていないなら、そのなりたちは、人というもののまるごとのうちにおいて、いかなる意義を有するのか。
そもそも、人にとって、人のなりたち、こころのかよう生きたからだは、いかなるものでしょうか。言い換えれば、〈わたし〉が、こころのかよう生きたからだをもつということは、どういうことでしょうか。さらに言い換えれば、人は、なぜ生まれてくるのでしょうか。いかがでしょう、なんとも有意義な問いではありませんか。
三の文です。
さて、考えるにより、そのなりたちにおいて起こるところは、なるほど、考えるのことたるところにはかかわっていないが、その考えるから〈わたし〉の意識が生じることには、どっこい、かかわっている。
考えるは、ひとえに〈わたし〉が生みだし、想い、思い、問いは、考えるが、こころのかよう生きたからだにおいて生みだし、〈わたし〉の意識もしくは自己意識は、こころのかよう生きたからだが考えるから生みだします。よって、〈わたし〉の意識のありようは、こころのかよう生きたからだにも、また想い、思い、問いにも左右されます。
四の文です。
考えるのことのうちに、なるほど、現実の〈わたし〉があるが、しかし、〈わたし〉の意識はない。
考えるのこと、悟りは、ひとえに〈わたし〉による、まぎれのない精神のことであり、ほかのことよりも、もっとリアルなことです(9-a-1)。そして、そのほかのこと、こころとからだのことにおいて、自己意識、〈わたし〉の意識があります。
五の文です。
そのことを見抜くのも、やはり囚われなく考えるを見る人である。
考えるを見る人は、考えるとともに〈わたし〉をありありと生きます。そもそも、考えるは、〈わたし〉が生みだせばこそ、ありありと意識されます。そして、そこから見ればこそ、このことがありありと知られます。すなわち、〈わたし〉の意識があるのは、こころのかよう生きたからだによってです。
六の文です。
〈わたし〉は、考えるのうちに見いだされるが、〈わたし〉の意識が出てくるのは、あまねき意識において、右に引き立てた意味における考えるの働きの跡が穿たれるによってである。
そもそも、世というのは、考えられるところであり、〈わたし〉が生みだす、考えるを見るの意識は、世という広がりをもつ、あまねき意識です。かたや、〈わたし〉の意識は、そのあまねき意識のうちの、こころのかよう生きたからだが、考えるの働きかけを受けつつ生みだします。
よって、わたしたちは、〈わたし〉の意識において、こころのかよう生きたからだのことを偲ぶことができますし、こころのかよう生きたからだにおいて、考えるのこと、〈わたし〉のことを偲ぶことができます。
しかしまた、わたしたちは、〈わたし〉の意識にかまけることで、こころのかよう生きたからだをないがしろにしがちですし、こころのかよう生きたからだにかまけることで、〈わたし〉をないがしろにしがちです。
そして、かっこつきですが、お終いのくだり、七、八、九の文です。
(すなわち、からだのなりたちによって〈わたし〉の意識が生じる。
しかし、そのことを、たとえば、ひとたび生じた〈わたし〉の意識は、からだのなりたちに左右されるままであるといった言い立てと、取り違えないでいただきたい。
ひとたび生じてからも、それは考えるに受け入れられて、ひきつづきその精神のことたるところに与る。)
精神は、考えるのこととして、〈わたし〉のする働きに恵まれ、こころのかよう生きたからだは、〈わたし〉に与えられあり、〈わたし〉の意識は、こころのかよう生きたからだによって生まれ、想い、思い、問いによって左右されますが、考えるのこと、〈わたし〉のことへと受け入れられつつ、なおさらに〈わたし〉のもの、精神のものとなります。それは、いかがでしょう、わたしたち、いまに生きる人が、得ていようといまいと、すでに歩んでいる、険しく、細い、自由な道においてではありませんか。(「受け入れる」に当たるのはaufnehmenであり、auf〈上げて〉nehmen〈とる〉というつくりで、「迎え入れる、泊める、とる(取、採、撮、執)」といった意です。それについては、ことに3-bの回を見てください。)
さて、この回のお終いにも、くどうなおことのはらみんなの『のはらうた』(童話社)から、ふたつのうたを引きます。
うみよ(よびかけのうた)
わたぐもまさる
さやさやと かぜのゆくみち
ふわふわと たびをつづけて
みおろせば いちめんのあお
あたたかい うみのふところ
やわらかく うたいつづけて
かぎりなく ゆれるすがたよ
みおろせば はるかなるうみ
あのうみは ぼくのふるさと
わたぐもよ(おへんじのうた)
うみひろみ
ひろびろと ひのでひのいり
ゆるゆると なみをゆすらせ
みあげれば まぶしいそらに
ほほえんで わたぐもひとり
おおらかに おどりつづけて
どこまでも はしりつづける
みあげれば いつもわたぐも
わたぐもは わたしのこころ