この八の章では、一の章から七の章までに得たことを、くりかえし見ています。この回は五の段です。
さらにひとつ、人となりの表れが与えられてある。〈わたし〉は、〈わたし〉の考えるによって、あまねき世の生をともに生きる。すなわち、〈わたし〉は、〈わたし〉の考えるにより、まぎれのないイデー(〈考え〉)において、覚えのかずかずを、みずからに重ね、みずからを、覚えのかずかずに重ねる。情においては、〈わたし〉が、客の、主への重なりを生きる。が、欲りにおいては、その逆である。欲するにおいても、わたしたちは、同じくひとつの覚え、すなわち、みずからの、客への、インディビジュアルな重なりを迎える。欲するにおいて、まぎれないイデーのファクターでないところは、外の世のものごとの場合と同じく、たんに覚えるの対象である。
くりかえし、一の文から見ていきます。
さらにひとつ、人となりの表れが与えられてある。
考えは、情のとりなしによって覚えに重なり、いきいきと生きるようになります。また、それとともに、人となりがなります。そして、その人となりが、弁える、感じる、さらには欲するにおいて、おもてに表れます(六の章)。すなわち、わたしたちは、みずからのはもとより、それぞれの人の弁えるにおいて、ことに感じるにおいて、さらには欲するにおいても、人それぞれなりのところを、あらわに見てとります。
二の文です。
〈わたし〉は、〈わたし〉の考えるによって、あまねき世の生をともに生きる。すなわち、〈わたし〉は、〈わたし〉の考えるにより、まぎれのないイデー(〈考え〉)において、覚えのかずかずを、みずからに重ね、みずからを、覚えのかずかずに重ねる。
そもそも、世というのは、考えるによって、いきいきと生きられるところとなります。また、それとともに、人となりを凌ぐ〈わたし〉が明らかにきわだちます。そして、その、いきいきした世という〈考え〉と、明らかにきわだつ〈わたし〉は、情によってとりなされるのではなく、逆に、それならではの情を醸しだします。いうならば、ひとりぼっちの情、または、さびしさの情です。すなわち、わたしたちは、そのような人となりを凌ぐありようから、もしくは、まぎれのない考え(イデー)において、意識的に、かつアクティブに、おのずからな覚えを、まさにみずからのものとして引き受けることもできますし、逆にまた、みずからを、ありのままの覚えに沿わせることもできます。そして、そのことにより、ありのままの覚えも、みずからの覚えも、ひとしお嵩じます。なお、この場合の「〈わたし〉das Ich」は、「人となりPersonlichkeit」を凌ぐ人のありようを指すでしょう。ことばを変えていえば「すべてでひとつの者dasall-eine Wesen」、または「インディビジュアリティIndividualitat」です(五の章)。
三の文です。
情においては、〈わたし〉が、客の、主への重なりを生きる。が、欲りにおいては、その逆である。
同じく、人となりを凌ぐありよう、まぎれない考え(イデー)、さらに言い変えれば、主客という対を凌ぐところから、わたしたちは、情において、いわばアクテイブな客とパッシブな主の重なりを、アクテイブに、かつ、ありありと意識することができます。そして、欲りにおいては、アクテイブとパッシブのかかわわりが入れ替わります。(なお「欲りWille」と「欲するwollen」については、ことに5-d-l, 5-d-2の回を見てください。)
四の文です。
欲するにおいても、わたしたちは、同じくひとつの覚え、すなわち、みずからの、客への、インディビジュアルな重なりを迎える。
さらに同じく、わたしたちは、主と客を凌ぐところ、またまた言い変えれば、「ものごとの上澄み(二の章)」から、欲するにおいて、アクティブな主とパッシブな客の重なりを、アクテイブに、かつ、ありありと覚えることができます。そして、いうところの重なりの覚えは、ひとしお嵩じた覚えです。
五の文です。
欲するにおいて、まぎれないイデーのファクターでないところは、外の世のものごとの場合と同じく、たんに覚えるの対象である。
いかがでしょうか。欲するにおいて、なにがまぎれないイデーのファクターであり、なにがたんに覚えるの対象でしょうか。わたしは、みずからを、たんに覚えることができます。また、みずからの欲する客をも、たんに覚えることができます。しかし、まさに欲するにおいて、みずからが、みずからの欲する客とアクテイブに重なるということは、まさにわたしが欲すればこそ覚えることができます。その欲するという、わたしのアクトは、ほかでもなく考えるによっています。言い変えると、いうところの重なりは、わたしの欲するというアクトによっての重なりであり、考えるから明らかになる考え(イデー)にほかなりません。そもそも、考える人は、考えるその時、その考えるを忘れます(三の章)。
すなわち、考えは、考えるの元手であり、情は、感じるの元手であり、欲りは、欲するの元手であり、考えも、情も、欲りも、たんに覚えるの対象となりますが、考える、感じる、欲するは、生きるということのファクターであり、わたしたちのするアクトであり、考えるにおいてこそ、ありありと、つまり、ひとしお嵩じた覚えとして覚えられます。なお、そのことは、外のものごとのありよう、すなわち「相Bild」が、象、像、様、絵、または現象、対象、印象、表象というように嵩じることと応じ合います(四の章)。
そのとおり、この八の章は、一の章から七の章までに得たことを、元手とファクターという観点から、くりかえし見てとっています。
さて、この回は、西田幾多郎『善の研究』から、こういう一節を引きます。
思惟の根抵に知的直観があるように、意志の根柢にも知的直観がある。我々が或事を意志するというのは主客合一の状態を直覚するので、意志はこの直覚に由りて成立するのである。意志の進行とはこの直覚的統一の発展完成であって、その根抵には始終この直覚が働いている、而(しか)してその完成した所が意志の実現となるのである。我々が意志において自己が活動すると思うのはこの直覚があるの故である。自己といって別にあるのではない。真の自己とはこの統一的直覚をいうのである。それで古人も終日なししつて而も行(こう)せずといったが、もしこの直覚より見れば動中に静あり、為して而も為さずということができる。またかく知と意とを超越し、而もこの二者の根本となる直覚において、知と意との合一を見出すこともできる。