この回は七の章の十の段からです。
わたしたちの知るにおいて要であるのは問いであり、問いがわたしたちに与えられるのは、場と時と主のなりたちとによって決まる覚えの領分に、世という、すべてであることを指す〈考え〉の領分が対しあうによってである。わたしの課題は、その二つの、わたしにしっかりと馴染みのある領分の釣り合いにおいて立つ。そこでは、知るの境を云々しようがない。とある時において、あれこれが明らかにならないままでありうるのは、わたしたちが、生きる現場によって、そこにかかわっているものごとを覚えるのを阻まれているからである。しかし、今日は見いだされずにあるところが、明日は見いだされるかもしれない。そのことによって決まる限りは、まさに移ろう限りであり、覚えると考えるが捗るとともに凌がれる。
いつものとおり、はじめの文から見ていきます。
わたしたちの知るにおいて要であるのは問いであり、問いがわたしたちに与えられるのは、場と時と主のなりたちによって決まる覚えの領分に、世という、すべてであることを指す〈考え〉の領分が対し合うによってである。
これまでに回を重ねて見てとったとおり、知るのプロセスは問うのプロセスであり、問いが生じるのは覚えの側と〈考え〉の側が対し合うにおいてであり、覚えのいちいちは場と時とわたしたちのなりたちに依っており、〈考え〉はいちいちの限りを超え、つまるところ、すべてでひとつの世を指します。(「決まる」に当たるのはbedingtであり、be〈まさに〉dingen〈ものごととする〉の過去分詞形です。)
二の文がこう続きます。
わたしの課題は、その二つの、わたしにしっかりと馴染みのある領分の釣り合いにおいて立つ。
知るのプロセスは、わたしに問いが与えられる、もしくは生じる(entstehen)ところから始まり、その問いをわたしが引き受け、まさに問いとして立てる(stellen)において捗り、わたしが答えを授かるにおいて、ひととおり終わります。つまり、その終わりは、新たな始まりともなります。
そして、わたしに問いが与えられるのは、わたしのなりたちのゆえに覚えと〈考え〉が対し合う(gegenuberstehen)時からであり、その問いを、わたしがまさに問いとして立てるのは、その対し合う覚えと〈考え〉を、わたしがはっきりと覚えつつ、まさしく認めつつ、釣り合わせるにおいてであり、わたしに答えが授かるのは、その覚えと〈考え〉の対し合い、釣り合いへと、なおさらな覚え、なおさらな〈考え〉が及びきて、ひとつに重なり合う時です。なお、言うまでもなく、覚えも〈考え〉も、わたしたちがじかに覚えるものであり、まさしく認めることができるものです。(「馴染みのある」に当たるのはbekanntであり、bekennen〈認める、明かす、打ち明ける〉の過去分詞形です。)
そのとおり、知るのプロセスにおいて、わたしの課題は、まずもってわたしに与えられ、やがてそれをわたしが引き受けつつ立てればこそ立ちます。それは、問いが明らかになるプロセスでもあり、その明らかさは、わたしが、わたしの課題に勤しむにおいて、恵まれてきます。(「・・・において立つ」に当たるのはin…bestehenであり、in...〈・・・の内に、・・・において〉bestehen〈まさに立つ、なりたつ、ありつづける〉という言い回しです。なお「与えるaufgeben」と「課題Aufgabe」については、前の回を見てください。)
そして、三の文です。
そこでは、知るの境を云々しようがない。
いかがでしょうか。知るのプロセスのうちには、知るの境をとやこう言い立てることは含まれません。それを言い立てることは、知るのプロセスから外れることであり、さらには知るのプロセスを阻むことでもあります。(なお「境Grenze」については、5-c-2の回を見てください。)
すなわち、四の文です。
とある時において、あれこれが明らかにならないままであるのは、わたしたちが、生きる現場によって、そこにかかわっているものごとを覚えるのを阻まれているからである。
いわば、覚えに覚え残しがありえますし、〈考え〉の覚えにも覚え残しがありえます。そして、それは、場のせいでもありえますし、わたしたちのなりたちの足りなさのせいでもありえます。(なお「現場Schauplatz」は、「人の意識」を指すはずです。すなわち「人の意識は、〈考え〉と見られるところとが互いに出会い、互いに結ばれる現場である」とあります。4-a-3の回を見てください。)
五の文がこう続きます。
しかし、今日は見いだされずにあるところが、明日は見いだされるかもしれない。
そもそも、知るがいかなることであるかという問いは、考えるからわたしへと隈なく明らかに生じ、まさにわたしが隈なく明らかに立てることのできる問いです。そして、その隈なき明らかさは、見通し、もしくは望みと言い換えることもできるでしょう(前の回)。はたして、わたしたちがものごとを知ろうとして、さしあたりは知ることができなくても、なおかつ知ろうとしつづけるのは、いつか知ることができるという、やがてへの明らかな見通し、すなわち望みがあればこそです。
そして、六の文です。
そのことによって決まる限りは、まさに移ろう限りであり、覚えると考えるが捗るとともに凌がれる。
覚えるが、場によって阻まれ、あるいは時の上で阻まれ、あるいはまたわたしたちのなりたちによって阻まれているという意味での、知るの限りは、かりそめの限りであり、新たな覚えと、新たな〈考え〉が得られるごとに踏み越えられます。(「凌ぐ」に当たるのはuberwindenであり、uber〈上へと、上において〉winden〈編む、もぎとる〉というつくりで、「打ち勝つ、乗り越える」といった意です。なお「限りSchranke」については5-c-1の回を、「移ろうverganglich」については、ことに6-aの回にいう「流れStrom」とのかかわりで見てください。)
十一の段が、こう続きます。
二元論は、こういう過ちをしでかしている。すなわち、主と客という、覚えの領域の内においてこそ意義を有する対を、その領域の外の、ただに考えだされたものへと引き移している。しかし、覚えの地平の内において分かたれてあるものごとが、まさに分かたれてあるのは、覚える者が考えるを控えるあいだであり、考えるは、分かちという分かちをごわさんにし、分かちという分かちを、ひとえに主によって決まるものとして知らしめる。つまり、二元論は、覚えにとってさえ絶対的でなく、相対的な意味を有するだけの定めを、覚えの向こうのものへと引き移す。そのことによって、二元論は、知るのプロセスにとって見てとられるところとなる二つのファクター、すなわち覚えと〈考え〉を、四つに切りきざむ。すなわち、
一、客そのもの、
二、主が客から有する覚え、
三、主、
四、覚えを客そのものへと重ねる〈考え〉である。
客と主の重なりは、リアルな重なりであり、主は客によって現実的に(ダイナミックに)影響される。そのリアルな重なりは、わたしたちの意識に降りて来ないとされる。ただ、そのリアルな重なりは、主のうちに、客から及びくる働きへの働きかえしを呼び起こすとされる。その働きかえしの結果が覚えであるとされる。いよいよその覚えが意識に降りて来るということである。客は客の(主に左右されない)リアリティを有し、覚えは主のリアリティを有するということである。その主のリアリティが主を客へと重ねるということである。その重なりは、考えとしての重なりであるということである。二元論者は、そのことをもって、知るのプロセスを、ふたところに切りさく。そのひとところ、すなわち、「ものそのもの、ことそのこと」から覚えの客が生みだされることを、二元論者は、意識の外において繰り出されるとし、もうひとところ、すなわち、覚えが〈考え〉と結びあわされ、〈考え〉が客へと重ねられることを、意識の内において繰り出されるとする。そういう前提の下において明らかであるとおり、二元論者は、その者の考えにおいて、その者の意識に先立ってあるところを、ただ主として代表するところを得ると信じる。主における客のリアルなプロセス、すなわち覚えが生じてくることも、ましてや客の重なり、すなわち「ものそのもの、ことそのこと」との重なりも、そうした二元論者にとっては、じかに知ることのできないままである。その者の念いに従うなら、人は、客のリアリティに向け、ただそれを〈考え〉において代表するところをあみだすことができるまでである。ものごとをひとつに繋ぐ絆、すなわち、ものごとの互いを結びあわせ、ものごとを客として、わたしたちのインディビジュアルな精神(「ものそのもの、ことそのこと」としての)と結びあわせる絆は、意識のかなたの、ひとつのものそのもののうちにあり、それについても、わたしたちは〈考え〉として代表するところを有することができるまでである。
ことに五の章において見てとったとおり、流れというのも、移ろいというのも、限りというのも、境というのも、わたしたちが、まさに覚えにおいて、つまり、覚えのいちいちをもとに定めるところです。そもそも、覚えにおいてこそ、つまり、わたしたちが考えるをさしおいて見ればこそ、いちいちがかかわりなくいちいちであり、わたしたちが考えるをもって見ればこそ、いちいちがかかわりをもってあります。もちろんのこと、主と客というのも、内と外というのも、いちいちのいちであり、その定めも、覚えのうちにおいてこそ意味があり、しかも、その意味は、移ろい、変わりゆく、かりそめの意味でしかありません。
かたや、二元論は、覚えの向こうにあるものとして、ものそのもの、ことそのことを考えだし(それとともに覚えと〈考え〉の釣り合いは崩れます)、その考えを、主と客の定めをものさしにして考えつつ細切れにします。(「切りきざむ」に当たるのはzerlegenであり、zer〈破り、分かち〉legen〈置く、横たえる〉というつくりで、「分解、分析、解体」といった意です。)
たとえば、わたしがコーヒーを口にして苦味を味わうにおいて、コーヒーというわたしの客も、わたしの口というわたしの主も、また、わたしの口とコーヒーとの重なりから生じる苦味も、わたしにとってはそれなりリアルですが、二元論に従えば、わたしは、コーヒーそのものの慟きかけに対するわたしの口の働きかえしを苦味として知るまでであり、コーヒーそのものからの働きかけも、ましてやコーヒーそのものも知ることができない、ということになります。すなわち、二元論は、わたしにとってそれなりリアルな客と主の重なりを切りさいて、わたしにとって知ることのできないもの(客そのもの、およびその働きかけ)と知ることのできるもの(主の働きかえし、および主)としますし、また、覚えも〈考え〉も、想いと同じく主のものと思いなします。(「現実的」に当たるのはwirklichであり、「働きかけ」に当たるのはWirkungであり、「働きかえし」に当たるのはGegenwirkungであり、いずれもwirken〈働く〉を根としています。はたして、現実というのは、働きかけと働きかえしのダイナミックな重なりにおいて生じるのではありませんか。なお「働くwirken」については、ことに4-a-2, 4-a-3, 5-c-1, 5-d-1の回を見てください。)
そして、二元論をさらに押し進めるならば、客そのものと同じく、主そのものをも、知ることのできないものとして立てなければならないはずです。そもそも、主と客はひとつの対であり、客なしの対もなければ、主なしの客もありませんので・・・。
しかし、これまでに見てとったとおり、主における客のリアルなプロセスとして、象、像、姿、絵、または現象、対象、印象、抽象、または「覚おぼゆ」の覚え、「覚える」の覚え、憶え、想いのひとつづきがあり(四の章)、さらに、考えるは、主と客を超えたところから主と客へ明らかに及びくる働きであり、かつ主がする働きであり(三の章)、さらにまた、〈考え〉は、現実の元手のひとつであり、かつ客と客のかかわりであり、かつ客と主のかかわり、もしくは主と客の重なりであり(五の章)、さらにまたまた、憶え、憶い、念い、惟い、思い、想い、悟りという、覚えとひとつに重なる〈考え〉のかたちにおいて、主のたわわさ、深み、広がり、すなわち、わたしたちの〈わたし〉、わたしたちのインデイビジュアルな精神があります(六の章)。そのとおり、主と客との覚えは、考えるによって、かかわりあいつつ、重なりあいつつ、働きかわしつつ、リアルになります。
そして、十二の段です。
二元論は、対象と対象の、〈考え〉としてのかかわりに添えて、さらにひとつ、リアルなかかわりを打ち立てなければ、世のまるごとが抽象的な〈考え〉のシェーマヘと薄まると信じる。言い換えると、二元論者には、考えるによって見いだされる理想の原理が、あまりにも薄っぺらに映じる。そして、その者は、ほかに現実の原理を求めて、理想の原理を支えてもらおうとする。
二元論がものそのもの、ことそのことを考えだし、ものそのものともののかかわり、ことそのこととことのかかわりを思い設けるのは、〈考え〉としてのかかわりを、抽象としてとらえるばかりであるからです。(「打ち立てる」に当たるのはstatuierenであり、ラテン語のstatuere〈立てる、据える、定める〉から来ています。)
向きを向うから迎えるへと換えて言うと、二元論者にとって、考えるは、働きかけが弱く、ダイナミズム(力と動き)を欠いた、頼りない働きと見えるばかりであり、〈考え〉、ないし理想は、現実の原理になりえないと見えるのみです。(「薄っぺら」に当たるのはluftigであり、luft〈空気〉ig〈の如く〉というつくりで、「とらえどころのないさま」をいいます。)
しかし、ここまでに見てとったとおり、考えるは、わたしたちにありありと働きかけつつ、想いをいきいきとあらしめ、ものごとをみずみずしくきわだたせますし、〈考え〉、ないし理想は、現実の元手のひとつです。すなわち、理想の原理は、現実の原理であり、理想と現実は、対し合う対であるよりも、むしろ重なり合う(sichbeziehen)対です。なお、それについては前の回を見てください。(「理想の原理」に当たるのはIdealprinzipであり、Ideal〈理想的〉prinzip〈原理〉というつくり、「現実の原理」に当たるのはRealprinzipであり、Real〈現実的〉prinzip〈原理〉というつくりです。いわんとするところは、すなわち、現実を現実たらしめる原理は、考えるによってこそ見いだされる〈考え〉の原理であるということです。)
さて、この回のお終いには、これまでの三回と同じく与謝野晶子の詩から、『巴里郊外』を引きます。ためしに、右に辿ってみた二元論の道筋として読んでみてください。ならば、その道筋がなおさら切実に迫ってこないでしょうか。
たそがれの路、
森の中に一すぢ、
呪はれた路、薄白き路
靄の奥へ影となり遠ざかる、
あはれ死にゆく路。