前の回に引いた歌に「恋ふ」「忍ぶ」「偲ぶ」「うらめし」といったことばが用いられていましたが、それについて補います。まず「恋ふ」について、
ある、ひとりの異性に気持ちも身もひかれる意。「君に恋ひ」のように助詞ニをうけるのが奈良時代の普通の語法。これは古代人が「恋」を、「異性ヲ求める」ことでなく、「異性ニひかれる」受身のことと見ていたことを示す。平安時代からは「人を恋ふとて」「恋をし恋ひば」のように助詞ヲをうけるのが一般。心の中で相手ヲ求める点に意味の中心が移っていったために、語法も変わったものと思われる。
(『岩波古語辞典』)
「偲ぶ」と「忍ぶ」について、
偲び:奈良時代にはsinofiという音で、「忍び」sinobiとは全くの別語だったが、平安時代に入って、それぞれsinofi→sirobi,sinoobi→sinobiという音変化を
経た結果、連用形どうし、終止形どうしが同音になり「思慕」と「隠忍」という意味上の近似もあって、両語は多少混同され、思慕する意で上二段に活用す
る例を生じた。(同上)
「うらめし」の「うら」について、
表面にあらわれないもの。「心」と同根の語。表面を「うへ」といい、古くは「うへ」と「うら」とが相対する語であった。すべて表に対するところ、かくれてみえないところをいう。・・・表(ひょう)と裏(り)は皮裘のようなときにはじめてその別があり、表は衣のなかに毛をしるし、毛のある皮、裏はその反対側である。・・・国語の「うら」は心であるから、それに対する「うへ」は面(おもて)を意味する。漢字では表と裏、国語では面と心という対応の関係となる。
(『字訓』平凡社)
ちなみに「うへ」は「うわぎ」「うわべ」「「うわずみ(二の章)」などの「うわ」であり、「うら」は「うらむ」「うらぶる」「うらがなし」などの「うら」です。また「うら」と「うへ(うわ)」という対は奈良時代までで、平安時代からは「うら」と「おもて」という対になったそうです。ここに、わたしたちの頭は、からだの上側にあって、わけても内が外に表れるところです。
そのとおり、想いにおける内外上下のありようも、想うのアクテイブな度合いも、ひとりひとりの人の生きる時につれ、または時代につれて、さまざまに異なります。ついでに「男前」「腕前」の「前」も「男(男心、男気)」「腕(技量、ファンクション)」のあらわに出てくるところだそうですから(このあいだテレピで聴きました)、前後もまた想うにおいてきわだつ対です。
さらに、ひきつづき、想いがなんであるかを見てとります。この回は六の章の十五の段からです。
想うは、わたしたちの〈考え〉の生きるに、すでにしてインディビジュアルなきわだちを与えている。どの人も、まさしく固有の立つところをもち、そこから世を見てとる。その人の覚えのかずかずに、その人の〈考え〉のかずかずが繋がる。その人が、ことさらな趣において、あまねき〈考え〉のかずかずを考えるようになる。そのことさらな定かさは、わたしたちが世において立つところ、わた
したちの生きる場に繋がる覚えの領分によって生じることである。
はじめの文から順を追って見ていきます。
想うは、わたしたちの〈考え〉の生きるに、すでにしてインディビシュアルなきわだちを与えている。
〈考え〉は、ひとりひとりの人を介して相応する覚えに重なり、かつ情に重なって、想いとなり、生きたものとなります。想いは、すなわち、人ひとりひとりにおいて生きられる〈考え〉であり、ひとりひとりのひとりたるところが、想いにおいていきいきときわだちます。(「〈考え〉の生きる」に当たるのはBegriff slebenであり、さきの回の「情を生きるGefuhlsleben」と響きかわします。なお「の」と「を」は入れ替えがききます。つまり、ことは一つであり、その二つの面として、「の」では客がひきたち、「を」では主がきわだちます。そして「きわだち」に当たるのはCharakterです。4-c-3の回を見てください。)
さて、二の文です。
どの人も、まさしく固有の立つところをもち、そこから世を見てとる。
わたしたちは、それぞれにそれぞれのところで目覚め、もしくは起きて、ものごとにまみえ、みずからに気づきます(二の章)。当たり前といえば当たり前ですが、不思議といえば不思議です。いかがでしょうか。なぜといって、そのことの意味を、わたしたちは、さしあたり思うことができないのですから。(「立つところ」に当たるのはStandortであり、Stand〈立つ〉ort〈所〉というつくりで、「所在地、居場所、位置、立場」といった意です。)
三の文です。
その人の覚えのかずかずに、その人の〈考え〉のかずかずが繋がる。
ものごとの覚えに、相応する〈考え〉が重なって、ものごとの想いが生じます。そして、その覚えも、その想いも、まさにわたしたちがそれぞれに立つところからの覚えであり、想いであり、また、その覚えに重なった〈考え〉も、まさにその覚えとの重なりを留めています。すなわち、インディビジュアルなものになっています。なお、それについては、四および五の段(6-bおよび6-cの回)を見てください。(「かずかず」は原語が複数形であることを伝えるために補いました。)
四の文です。
その人が、ことさらな趣において、あまねき〈考え〉のかずかずを考えるようになる。
わたしたちは、ものごとの想いをもとにしてこそ、ものごとを考えるようになります。そして、ひとつの〈考え〉は、人それぞれが考えても、同じひとつの〈考え〉ですが、その同じひとつの〈考え〉が、人それぞれの想いから、それぞれに考えられます(5-c-1)。たとえば、わたくしごとですが、光という〈考え〉を、こんなふうに考えたこともあります。とある夕暮れ、とある人工湖のほとりにいた時のこと、向こうの山の端に夕日が近づきつつあり、黒ずんだ水面にはオレンジの光が一筋、きらきらと揺らめいています。あちらに夕日、こちらにわたし、そのあいだに光の帯の揺らめき、見ているうちに、なんだか不思議な感じがしてきます。で、少し離れたベンチに座っている人のほうを見やります。なんと、その人には光の帯が及んでいません!いや、その人にも、きっと、光の帯が及んでいる、ただ、わたしには見えないだけだと、わたしは考えます。それでひとたびは胸をなでおろしますが、不思議な感じはなくなりません。光の帯を、なおさらに見つつ、考えつつ、ますます不思議な気がしてきます。なぜ、わたしは、かの人に及んでいる光の帯を見ることができないのか。で、立ち上がり、かの人のほうへと、なにげないふうを装いながら歩いていきます。光の帯もついてきます。なんとつきあいのいいこと!そして、わたしは、その人の真後ろに立ちます。夕日、光の帯、その人、わたしが、真直ぐに並びます。が、不思議さはいよいよ嵩じます。わたしは、その人の見ている光の帯を見ているのか。わたしの見ている光の帯は、わたしが見ている光の帯でしかないのか。とにかく、その人はそこに座って、夕日のほうを見ていますし、わたしは、その人の後ろに立って、夕日と、光の帯と、その人を見ています。わたしの居るところと、その人の居るところとは、ひとつになりようがありません。で、いつまでもそのままでいるのもなんですし、わたしはその場を後にしましたが、光の帯はずっとついてきました。湖が見えなくなるまで。(「ことさらな」に当たるのはbesonderであり、be〈まさに〉sonder〈離れて、それとして〉というつくりで、「個別、特有、特異」といった意です。かたや「あまねき」に当たるのはallgemeinであり、all〈すべてに〉gemein〈共通の〉というつくりで、「普遍、一般、ー切」といった意です。)
五の文です。
そのことさらな定かさは、わたしたちが世において立つところ、わたしたちの生きる場に繋がる覚えの領分によって生じることである。
わたしたちは、あまねき〈考え〉を、わたしたちそれぞれの想いをもとに、すなわち、わたしたちそれぞれにとっての定かな覚えと〈考え〉をもとに考えます。そして、その定かさは、わたしたちがそれぞれに立ちつつ生き生きと覚える周りのものごとがもとになって生じます。(「定かさ」に当たるのはBestimmtheitであり、Bestimmt〈定められて〉heit〈あること〉というつくりで、「きっぱりと、確かに、それとしてあること」の意です。なおbestimmen〈定める〉については4-a-3の回を見てください。「・・・によって生じること」に当たるのはErgebnisであり、geben〈与える〉から来て、「与えられて出てくること」であり、「結果、成果、収穫」といった意です。)
そして、十六の段です。
その定かさに、もうひとつ、わたしたちのことさらななりたちに依る定かさが対し合う。わたしたちのなりたちは、まさしく特有で、まるまる定かないちいちである。わたしたちは、だれしも、ことさらな情のかずかずを、しかも、さまざまに異なる強さの度合いにおいて、わたしたちの覚えのかずかずに結ぶ。それは、わたしたちの人となりのインディビシュアルなところである。それは、わたしたちが生きる現場の定めをすべて勘定に入れるにおいて、余りとして残るところである。
くりかえし、 一の文から見ていきます。
その定かさに、もうひとつ、わたしたちのことさらななりたちに依る定かさが対し合う。
わたしたちは、周りのものごとを覚えるとともに、わたしたちみずからをも覚えます(4-b-4)。そして、その覚えにも、相応の〈考え〉が重なるにおいて、みずからという想いが生じます。言い換えれば、わたしたちのなりたちが定かになります。また、それとともに、わたしたちは周りのものごとに対して立つようになります。(「なりたちOrganisation」については5-c-1の回を見てください。「対し合う」に当たるのはentgegenstehenであり、entgegen〈対して〉stehe〈立つ〉というつくりです。)
二の文です。
わたしたちのなりたちは、まさしく特有であり、まるまる定かないちいちである。
ものごとのいちいちのうちでも、わたしたちのなりたち、すなわち、わたしたちのこころが通う生きたからだは、そのこころの通いようも、生きようも、からだつきも、まさにわたしたちひとりひとりが有し、まさにわたしたちひとりひとりにとって余すところなく確かです。(「特有」に当たるのはspeziellであり、英語のspecialに当たり、ラテン語のspecere〈視る〉ないしspecies〈現れ、種、趣〉から来ています。)
すなわち、三の文です。
わたしたちは、だれしも、ことさらな情のかずかずを、しかも、さまざまに異なる強さの度合いにおいて、わたしたちの覚えのかずかずに結ぶ。
わたしたちは、わたしたちそれぞれのなりたちをもとにして、それぞれにものごとに対しつつ、たとえば親しく、あるいは疎ましく、また、いきいきと漲りつつ、あるいは弱々しく萎えつつ、それぞれなりに応じています。
四の文です。
それは、わたしたちの人となりのインディビジュアルなところである。
それ、すなわち、わたしたちがものごとに対し応じることは、わたしたちのそれぞれが、それぞれの人となりをもとにして、それぞれにしています。
五の文です。
それは、わたしたちが生きる現場の定かさをすベて勘定に入れるにおいて、余りとして残るところである。
それ、すなわち、わたしたちがものごとに対し応じることは、わたしたちが生きる現場の定かさ、すなわち、定かなものごとのしからしむるままではありません。(「勘定に入れる」に当たるのはin Rechnung bringenであり、in Rechnung〈計算、考慮、勘定書のなかへ〉bringen〈もたらす〉という言い回しで、「負債として記入する」の意です。よって「余り(わたしたちの人となりのインディビジュアルなところ)」のほうは「資産」です。いかがでしょうか。なお「現場Schauplatz」については4-a-3の回を見てください。)
そして、十七の段です。
考えをすっかり欠いた情の生きるは、きっと、だんだんに世とのかかわりをすべて失うであろう。ものごとを知るは、総計の上に宛てがわれる人において、情の生きるを培い育むことと手に手をとって歩もう。
考えるのもとに、あまねさ、ひとりぼっち(allein)の情が湛えられ(5-c-2)、想うにおいて、ことさらさ、確かさの情が漲ります。そして、わたしたちは、ことさらさ、確かさの情をもとに、あまねさ、ひとりぼっちの情を、よりよく耐えることができます。その意味において、生きる現場の定かさと、人となりの定かさは、わたしたちを縛るでなく、支えます。その支えがあってこそ、ものごとが、よりよく知られていきます。(「総計」に当たるのはTotalitatであり、Total〈トータルで〉itat〈あること〉というつくりです。「負債」「資産」との縁で「総計」としました。
そして「宛てがう」に当たるのはanlegenであり、an〈付けて〉legen〈置く〉というつくりです。「総計の上に宛てがわれる人」というのは、すなわち「考える人」もしくは「人ひとりの豊かさ、深さ、広さ」を指しています。なお「歩む」に当たるのはgehen〈行く〉です。Stehen〈立つ〉との縁で、「歩む」としました。)
そして、お終いの十八の段です。
情はとりなし手であり、それによって〈考え〉のかずかずが、まずもって具象的な生を得る。
あまねき〈考え〉が、情を介して覚えと重なり、まずは定かに生きるようになります。そして、覚えにおける不思議さ、あるいは当たり前さの情は、想いをもとに考える、あるいは想いをさしおいて考えるから起こされる情です。
そのとおり、この回は、想いの意味と人ひとりの広さを見てとりました。そして、この回の、かつ、この章の終わりには、こんなことばを引きます。
いはゆる一切衆生の言(ごん)、すみやかに参究すべし。一切衆生、その業道依正(ごふだうえんしょう)ひとつにあらず。その見、まちまちなり・・・
まず、「一切衆生」ということばについて、ありきたりの受け止め方に安住せず、「すみやかに参究」すべきであると説かれる。おなじく「一切衆生」といっても、その「業道(ごうどう)」や「依正(えんしょう)」は一つではなく、その見解、つまり思想なり考え方なりは、さまざまに異なっているというのである。ちなみに、「業」というのは、将来に果を招くことになる過去の行為であり、「道」は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上を合わせて「六道」と称されるような、「業」によって異なる生きざまの場面である。また、「依正」というのは、依って立つ環境世界としての「依報(えほう)」と、そこに生きる当事者としての「正報(しょうほう)」との両側面を合わせて「業」の報いの姿とみなしたものにほかならない・・・
(森本和夫『「正法眼蔵」読解1』第三「仏性」ちくま学芸文庫)