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略伝自由の哲学第六章d

 ひきつづき、想いがなんであるかを見てとります。まず、前の回に「おもて」「おもだち」「おもむき」「おもかげ」といったことばを引き合いに出しましたが、それを引き継ぎたいので、こんなおもことばを引こうと思います。

 

 思うということの原質は、外に対する内なるものの反応を示すこと、それが「おもて」にあらわれるということであった。もしそのことをもっていうならば、国語の「おもふ」という語は、そのような思惟の原初のありかたを、そのままとどめている語である。「おもふ」とは「おもて」にあらわれる意であり、「面(おもて)」を動詞化した語である。その構造は「外(よそ)~装(よそ)ふ」「下(した)~慕(した)ふ」「言(こと)~答ふ」「座(くら)~比ぶ」と同じである。また「面」を動詞化したものに「おもねる」「おもむく」「おもむろ」などがある。

(白川静『文字逍遥』平凡社ライプラリー)

 

 さて、この回は六の章の八の段からです。なお、この段は一つの文からなります。

 

 わたしたちにとり、覚えと〈考え〉として立つのが現実であり、想いとして立つのが現実の、主によって代表されるところである。

 

 ここまでに見てとったとおり、わたしたちを介して覚えと〈考え〉がぴたりと重なるにおいて、相、リアリティが出てきます。すなわち、ものごとが知られます。それとともに、その覚えに重なった〈考え〉が、わたしたちのものとなります。すなわち、そのものごとを想うファンクションが、わたしたちに授かります。(「・・・として立つ」に当たるのはsich als・・・darstellenであり、sich〈みずからを〉als・・・〈・・・として〉dar〈そこに〉stellen〈据える〉というつくりで、「・・・として表れる、・・・である」といった意です。なおdarstellen〈そこに据える、表わす〉はvorstellen〈前に据える、想う〉に通じ、vorstellen〈前に据える、想う〉はreprasentieren〈代表する〉に通じます。はたしてreprasentieren〈代表する〉は、〈repraesentare〉というラテン語からつくられていますが、それをそのままドイツ語に置き換えるとwiedervorstellen〈ふたたび前に据える、ふたたび想う〉となります。なおdarstellen〈そこに据える、表わす〉にはdarbieten〈そこにさしだす、呈する〉が先立っていました(5-b-1)。またvorstellen〈前に据える、想う〉については4-b-4の回を、reprasentieren〈ふたたび前に据える、代表する〉については6-cの回を見てください。)

 九の段です。また、この段も同じく一つの文からなります。

 

 もし、わたしたちの人となりが、ひとえに知りつつでおもてに表れたなら、客という客が、覚え、〈考え〉、想いとして与えられていよう。

 

 わたしたちは、わたしたちのものとなった、ものごとを想うファンクションを、ひきつづき、そのものごとを想うアクトとしてはもとより、そのものごとを覚えるアクト、そのものごとに類するものごとをとらえるアクト、そのものごとを考えるアクトといった、いわば知るアクトとして繰り出しつつ(5-d-1~5-d-3)、そのものごとを内に描きだし、そのものごとを外にふたたび定かに覚え、そのものごとの趣と同じ趣を外か内かに感じとり、そのものごとを内外を超えて定かに考えます。そのとおり、ものごとは、わたしたちのものとなった、そのものごとを想うファンクションの繰り出し、わたしたちの人となりの、おもてへの表れによって、相を呈し(そこにさしだされ)、表れ(そこに据えられ)、想われ(前に据えられ)、代表されつつ(ふたたび前に据えられつつ)、客としてありありと立ちます。(「おもてに表れる」に当たるのはsich außernであり、sich〈みずからを〉außern〈外に出す〉というつくりで、「外に出る」の意です。さきの「表れるsich darstellen」と分かっために「おもてに表れる」としました。また「人となりPersonlichkeit」については、この回のお終いにふれます。なお、そのことばは、すでに4-b-4の回に出てきています。)

 

 我が恋を忍びかねては

  あしひきの山橘(やまたちばな)の色にいでぬべし

紀友則『古今利歌集』

 

 さて、十の段です。なお、この段は一つでなく二つの文からなります。

 

 しかし、わたしたちは、覚えを、考えるの扶けによって〈考え〉に重ねることをもっては満ち足りずに、覚えを、わたしたちのことさらに主たるところ、わたしたちのインディビジュアルな〈わたし〉にも重ねる。そのインディビジュアルな重なりの表れが、快.不快として生きる情である。

 

 ものごとは、そのものごとを想うわたしたちにとって、親しくありもすれば、疎ましくありもしますし、その親しさ、疎ましさは、わたしたちのひとりひとりでそれぞれでもあります。こうも言うことができます。ものごとを想う主、わたしたちの〈わたし〉は、想われるものごとの親しさ、疎ましさの感じによって、いきいきと漲りますし、ものごとは、そのものごとにかよう親しさ、疎ましさの感じによって、いわば色濃く、想う主、感じる〈わたし〉にとってのものごととなります。(「満ち足りる」に当たるのはsich begnugenであり、sich〈みずからを〉Begnugen〈充足させる〉という言い回しです。)

 ここでも一首、

 

 陸奥のしのぶもぢずり

  誰ゆゑに乱れそめにしわれならなくに

河原左大臣『古今和歌集』

 

 十一の段です。また、この段も同じく二つの文からなります。

 

 考えると感じるは、わたしたちがすでに考えてみたとおりの、わたしたちというものの二重の自然に相応する。考えるは、わたしたちがコスモスのあまねきことを共にすることの元手であり、感じるは、わたしたちがみずからというものの狭さへと引き返すことの元手である。

 

 そもそも、ものごとは、わたしたちにとって、内外の境にあり、主客の対し合いにおいてあります。すなわち、わたしたちは、考えるによって、主客を超えつつ、主客の対しあいを加減することができますし(4-b-4)、内外を凌ぎつつ、内外の境をいずこにも定めることができます(5-c—2)。そして、わたしたちは、そのことを感じつつ賄えばこそ、外と接する内として、客と対しあう主として、いきいきと漲りつつ立つことができます。(「みずからというもの」に当たるのはdas eigene Wesenであり、das eigene〈固有な〉Wesen〈もの〉という言い回しです。なおeigene〈固有な〉については6-cの回を、Wesen〈もの〉については4-a-3の回を見てください。)

 ここでも一首、

 

 月見れば千々に物こそ悲しけれ

  わが身ひとつの秋にはあらねど

大江千里『古今和歌集』

 

 そして、十二の段です。

 

 わたしたちの考えるは、わたしたちを世と繋げ、わたしたちの感じるは、わたしたちをみずからへと連れ戻して、わたしたちをいよいよ〈ひとり〉とする。もし、わたしたちが、ひとえに考えつつ、覚えつつのものであったなら、わたしたちの生は、きっと、ひとつの違いもなく、ひとしなみに送られていよう。もし、わたしたちが、わたしたちを、ひとえにみずからとして知ることができるだけであったなら、わたしたちは、まったくひとしなみであろう。わたしたちは、みずからの知とともに、みずからの情を、ものごとの覚えとともに、快・苦を感覚することによって、いよいよインディビジュアルなものとして、すなわち、世とのかかわりとしての〈考え〉のかかわりをもって尽きるのではなく、それとしてことさらな値をもつものとして生きる。

 

 わたしたちは、みずからを覚えつつ考えるによって、みずからが世のひとところであるのを知り(5-c-2)、みずからに湧きくる情を覚え、ものごとにかよう情を感覚するによって、それぞれに異なるひとりひとり、それぞれにかけがえのない〈わたし〉としていきいきと生きます。そして、わたしたちは、世とみずからの境を、からだ、服、家、社会、国、世などの限りをもって定めるものですが、「わたしのからだ」「わたしの服」「わたしの家(わが家)」「わたしの社会(わが社、わが校、わが町、わが・・・)」「わたしの国(わが国)」「わたしの世(わが世)」などのことさらな値も、その境にまつわる情によって出てきます。どうやら、いまのわたしたちは、みずからの境を「狭く」定めるほうが漲るようです。(「〈ひとり〉」に当たるのはdas Individiumであり、individuell〈インデイビジュアルな〉の名詞形です。Das Ichを〈わたし〉と訳したのに合わせて、〈ひとり〉としました。また「みずからの知」に当たるのはSelbsterkenntnisで、かたくいえば「自己認識」、くだいていえば「知られるみずから」であり、「みずからの情」に当たるのはSelbstgefuhlで、「自己感情」といった訳も目にしますが、いわば「感じられるみずから」「情のかようみずからの覚え」です。)

 ここでも一首、

 

 人もをし人もうらめし

  あじきなく世を思ふゆゑに物思ふ身は

後鳥羽院『続後選和歌集』

 

 さて、十三の段です。

 

 人は、情を生きるが、世を考えつつ見てとるよりも、リアリティのたわわに満ちる元手である、というように視る傾きをもつこともあろう。それに対して言うべきことだが、情を生きるが、まさにそのとおり、よりたわわな意義をもつのは、わたし〈ひとり〉にとってのみである。世のまるごとにとって、わたしの情を生きるが、ひとつの値をもちうるのは、その情が、わたしみずからについての覚えとして、ひとつの〈考え〉と結びつき、その回り道を経てコスモスのひとところとなればこそである。

 

 情は、そもそもにおいて秘めやかであり、わたしひとりが覚えるところです。そして、わたしひとりを介して、その覚えに相応する〈考え〉が重なればこそ、わたしの忍ぶところとなり、また他人の偲ぶところとなりえますし、さらには広く世の人の偲ぶところともなりえます。(「傾きをもつ」に当たるのはversucht seinであり、versucht〈誘われ、ないし惑わされ、ないし試されて〉sein〈ある〉という言い回しで、いわば「つい・・・しがち」の意です。また「情を生きる」に当たるのはGefuhlslebenであり、Gefuhls〈情の、感じの〉leben〈生きる〉というつくりで、いわば「生きた情の覚え」です。)

 ここでも一首、

 

 人はいさ心も知らず

  ふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

紀貫之『古今和歌集』

 

 そして、十四の段です。

 

 わたしたちの生きるは、あまねき世のことを共に生きると、わたしたちのインディビジュアルなありようとのあいだの、絶えざる行き来である。わたしたちが、考えるのあまねき自然へと昇りゆき、わたしたちにとって、インディビジュアルなものが、つまるところ、〈考え〉の一例、〈考え〉の一サンプル以上ではなくなるほどに、わたしたちにおいて、ことさらなもののきわだち、まったく定かな、ひとりの人となりのきわだちは失せてゆく。わたしたちが、固有に生きるの深みへと降りゆき、わたしたちの情を、外の世の経験と共に響かせるほどに、わたしたちは、わたしたちを、ユニヴァーサルなありようから分かつ。まことのインディビジュアリティというのは、いたって遥かに、その人の情をもって、イデーの領分へと昇りゆく人のことであろう。人によっては、頭にしつかりと根づいた、いたってあまねきイデーもが、ことさらな色合いをもち、その色合いが、そのイデーを、まがいようもなくそのイデーの担い手とのかかわりにおいて示す。また、人によっては、その人の〈考え〉が、固有さの跡という跡を欠いて、さながら血と肉をもつ人のではないかのように、わたしたちに迫りくる。

 

 わたしたちは、考えるにおいて、すべてでひとつのものであり、感じるにおいて、ひとりひとりのひとりであり(5-c-2)、覚えるにおいて、ひとつひとつのひとつです(6-a)。そして、想いは、考えと覚えのあいだにおいて、想、思、惟、念、憶といったかたちをとります。すなわち、想いは、高く、ただの考えのごとくになるにつれ、みずからの情が薄まつて、インディビジュアルな度合いを落とし、狭く、みずからの覚えのごとくなるにつれ、みずからの情が濃く、深く湛えられて、インディビジュアルな度合いを強めます。なお、この回に取り上げてきた八から十四までの七つの段は、ひとつひとつの段が高みと深みのあいだの行き来ですし、段から段に進むとともに、深く降りゆくプロセスが捗ります。

 ここでも一首、

 

 筑波嶺(つくばね)の峰より落つるみなの川

  恋ぞつもりて淵となりぬる

陽成院『後選和歌集』

 

 さて、深く降り立ったところから、ふたたび高みへ昇りゆきます。そもそも、わたしたちは、想うことをしはじめて(三、四歳から)、パーソナルに生きるようになり、想うことが増すにつれて、なおさらパーソナルになり、そのパーソナリティ(人となり)が、想うにおいて、おもてに表れます。しかし、わたしたちは、それでも満ち足りません。そもそも、わたしたちは、想いつつ感じつつ、考えると覚えるのあいだをいきいきと行き来してこそ、ひとりひとりの人であることができます。まさにその時、わたしたちは、考えるにおけるすべてでひとつから新たに照らされて明るみつつ(五の章)、覚えるにおけるひとつひとつが謎としていきいき響いてきます(二の章)。まさにその謎と光のあいだにおいては、きっと、ひとりひとり誰しも、なおさら〈わたし〉であることというイデー、すなわち「まことのインデビジュアリティ(eine wahrhafte Individualitat)」言い換えるならば「まさに人のひとりであること(die menschliche Individualitat)」という理念(Idee)を、いささかなりとも理想(Ideal)としてもちあわせます。

 ここでも一首、

 

 臙脂色(えんじいろ)は誰にかたらむ血のゆらぎいのら

  春のおもひのさかりの命

与謝野晶子『みだれ髪』

 

 なお、はじめの歌の「山橘」は、ヤブコウジで実が秋冬に赤く熟するそうですが、こちら「燕脂色」の歌は、それからほぼ千年の後の春の作です。

 

 そのとおり、この回においては、想いの意義、価値、意味のうち、おもに価値に光が当たり、人ひとりの豊かさ、深さ、広さのうち、ことに深さがきわだちました。さて、この回のお終いには、はじめに引いたことばの続きをも引こうと欲(おも)います。

 

 「おもふ」を示す漢字は五、六十字にも及ぶが、国語には「おもふ」の一語しかない。しかし「おもふ」はまた、それゆえに無限定的な思惟情感の全体であることができた。そして必要なときには、「念ふ、想ふ、懐ふ、憶ふ、以為ふ、惟ふ」など、それぞれ限定的な用義の字を選択することができた。しかし、いまのわが国の国語政策では、われわれは「思ふ」こと以外には、「念ふ」ことも「想ふ」ことも「懐ふ」ことも「憶ふ」ことも、みな制限されている。しかも念願、想像、懐古、追憶することは許されているのである。しかしすでに訓読みを失ったこれらの字を、学習者はどのようにして理解することができるというのであろうか。