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略伝自由の哲学第五章d−3

 これまでの二回において、わたしたちは、考えるが具象的な内容を有するのを見てとりました。すなわち、いうところの「象」は、「きざし」として、考えるからわたしたちへと及ぶ働きかけ(Wirkung)と見ることができますし、いうところの「内容」は、ものごとのかかわり、もののなりたち、ことのがら、または、ものごとの法則、意義、意味ととることができます。さて、この回は、五の章の二十五の段からです。

 

 その内容を、考えるは、覚えへと、人の〈考え〉とイデーの世からもたらす。わたしたちに外から与えられている覚えの内容の対として、考えの内容は内に現れる。その内容がまずもって出てくるときのかたちを、わたしたちは悟りと呼ぼう。それが考えるに向けてあるのは、見るが覚えに向けてあるのと同じである。悟ると見るが、わたしたちの知るの源である。わたしたちが世のものごとを見つつ、それによそよそしく対するのは、わたしたちの内に相応の悟りを欠くあいだであり、そして、悟りが覚えにおいて欠ける現実のかたわれを補う。ものごとに相応する悟りを見いだす力をもちあわせない者にとって、まるまるの現実は閉ざされたままである。色盲が色という質を欠く明暗の違いのみを視るように、悟りを欠く者が見ることができるのは、かかわりあいのない、ばらばらの覚えのみである。

 

 一の文から見ていきます。

 

 その内容を、考えるは、覚えへと、人の〈考え〉とイデーの世からもたらす。

 

 その内容、ものごとのかかわりは、考えるによって、ものごとの覚えへともたらされた考えです。なお〈考え〉もイデーも考えのうちです。(「〈考え〉Begriff」「イデーIdee」については、4-a-1の回を、「世die Welt」については5-a-1の回から5-d-2の回までを見てください。)

 二の文です。

 

 わたしたちに外から与えられている覚えの内容との対として、考えの内容は内に現れる。

 

 覚えの内容は、わたしたちへと、外から与えられ、考えの内容、ものごとのかかわりは、わたしたちへと、内から与えられます。もしくは、わたしたちの内に現れます。そして、内と外の重なりが、ものごとのリアリティです。(「内innen」「外aussen」については、5-c-2の回を見てください。)

 三の文です。

 

 その内容がまずもって出てくるときのかたちを、わたしたちは悟りと呼ぼう。

 

 ものごとのかかわり、考えの内容が、わたしたちへと、まずもって現れるときのかたちが、ここにいう悟りです。なお、さきにいう「きざし」、あるいは「ひらめき」や「勘」といったことばも、そのかたちを指しているはずです。(「悟り」に当たるのはIntuitionであり、intueri〈見てとるbetrachten〉というラテン語から来て、「じかに観ることunmittclbare Anschauung」だそうです。また、そのことばは、哲学において「直観」「直覚」というようにも訳されます。)

 四の文です。

 

 それが考えるに向けてあるのは、見るが覚えに向けてあるのと同じである。

 

 それ、悟りは、考えるの働き(Wirken)として現れるとともに、わたしたちのする働き(Tun)としての考えるのはじまりでもあります。それは、わたしたちのする、見るが、与えられる働きとしての見ゆの嵩じたかたちであるのと同じです。いうならば、見るの先に見ゆ、ないし覚えるがあり、悟るの先に考えるがあります。(「向けて」に当たるのはforであり、英語のforに通じます。ここでは「悟り」および「見る」の立場に立って「向けて」と訳しましたが、「考える」および「覚え」の側からすれば「とって」と訳すのが、ふさわしくなります。)

 五の文です。

 

 悟ると見るが、わたしたちの知るの源である。

 

 わたしたちがものごとを知るのは、悟るによって考えを汲みつつ、見るによって、覚えを汲みつつです。こうも言うことができます。覚えがみずみずしく生きてくるのは、わたしたちがまさに見るからであり、考えがいきいきと生きてくるのは、わたしたちがまさに考えるからです。そして、わたしたちがまさにものごとを知るのは、みずみずしい覚えと、いきいきした考えが、ひとつに合わさる時です。その意味において、悟ると見るは、知るにとっての泉のごとくであり、その泉こそは、汲めども尽きることがありません。(「源」に当たるのはQuelleであり、quellen〈湧く〉からきて、「泉」「出所」「本場」といった意です。)

 さて、六の文です。

 

 わたしたちが、世のものごとを見つつ、それによそよそしく対するのは、わたしたちの内に、相応の悟りを欠くあいだであり、そして、悟りが、覚えにおいて欠ける現実のかたわれを補う。

 

 わたしたちは、まだ見たことのないものごとに対して、よそよそしさを感じます。また、いくたびも見て、親しみを感じていたものごとが、あるときから、よそよそしく感じられるようになったりもします。さらにまた、親しく感じられているものごとを、その親しさにとらわれずに、言い換えれば、よそよそしく隔たりをおいて見ようともします。そのとおり、知るには、情もかかわっています。そして、そのよそよそしさは、わたしたちが、内に、それなりの悟りを見いだすにおいて、親しさにかわります。すなわち、悟りは、情をなりかわらせるものでもあります。また、それとともに、ものごとがひとしおリアルになります。すなわち、悟るは、ものごとをリアルにするものでもあります。ちなみに、それなりの悟りを見いだすにいたるまでのあいだが長いか短いかは、ものごとによりけりでもあり、人によりけりでもあります。加えて、わたしたちは、ものごとに相応しない悟りを見いだしたりもするものです。(「よそよそしい」に当たるのはfremdであり、もともとはentfernt〈隔てられた〉という意、いまは「よその」「他人の」「見知らぬ」といった意で用いられます。)

 七の文です。

 

 ものごとに相応する悟りを見いだす力をもちあわせない者にとって、まるまるの現実は閉ざされたままである。

 

 その力とは、なんでしょうか。それは、ものごとを考えようとする、わたしたちの欲りにほかなりません。すなわち、知るには、欲りもかかわっています。そして、欲りもまた、悟りによってなりかわります。すなわち、ただの欲りが、欲りのアクト、欲りのファンクションヘ、もしくは、ただの意欲が、意志、意向へです。また、それとともに、ものごとがひとしおなりたちます。逆に、わたしたちが、その欲りを欠くにおいて、ものごとが、いよいよ疎ましく、俊く、取るに足らないものとなりはてます。(「アクトAkt」「ファンクションFunktion」については、ことに5-c-1の回を見てください。)

 そして、八の文です。

 

 色盲が色という質を欠く明暗の違いのみを視るように、悟りを欠く者が見ることができるのは、かかわりあいのない、ばらばらの覚えのみである。

 

 目という器官にさしさわりがあって、色が見えないということが生じます。同じく、こころにさしさわりがあって、なにもかもが灰色に見えるということが生じます。さらに、わたしたちは、意識して色をさしおいて見るということも、しようとすればできるものです(たとえば明暗画のごとく)。はたまた同じく、かかわりあいのない、ばらばらの覚えに対するのは、考えようとする欲りが弱まりつつ、悟り(考え)を欠くこころか、または、悟り(考え)をさしおいて見ようと欲する意識です。(「悟りを欠く」に当たるのはohne Intuitionですが、そのohne〈欠く〉は、また「さしおく」というようにアクテイプに訳すこともできるはずです。なお、そのことについては4-a-4の回および5-d-2の回を見てください。)

 

 そして、わたしたちは、悟り(考え)をさしおくことができるばかりでなく、また、悟り(考え)を、こころへ、ならびに、からだへと、とりこむこともできます。すなわち、次の段がこうつづきます。

 

 ひとつのもの、ひとつのことを、説き明かす、分かるようにするということは、ほかでもなく、そのひとつをかかわりのうちに据えることであり、そのひとつがかかわりから引き離されてあるのは、右にいう、わたしたちのなりたちの立てかたによってである。世のまるごとから切り離されているものごとというのは、なにひとつない。分かちという分かちは、ただに主によること、わたしたちのなりたちにとってのことである。わたしたちにとっては、世のまるごとが、上と下、前と後ろ、素材と力、客と主などというように分かれる。いちいちを見るにおいて、わたしたちに対しあうところが、わたしたちの悟りの、かかわりあわせ、ひとつに織りなす世によって、結びつき、世の節々となる。わたしたちは、覚えるによって分けたすべてを、考えるによって、ふたたび、ひとつにまとめあわせる。

 

くりかえし、一の文から見ていきます。

 

 ひとつのもの、ひとつのことを、説き明かす、分かるようにするということは、ほかでもなく、そのひとつを、かかわりのうちに据えることであり、そのひとつがかかわりから切り離されてあるのは、右にいう、わたしたちのなりたちの立てかたによってである。

 

 わたしたちが、ひとつのもの(こと)を見つつ、それなりの悟り(考え)を欠くか、さしおさえるにおいて、そのものが、ほかのものとのかかわりを欠いて見え、逆に、わたしたちが、ひとつのものを見つつ、それなりの悟りを重ねるにおいて、そのものが、世のかかわりのうちに、すっきりと立ちます。そのとおり、わたしたちは、見ると悟るという二重のなりたちを、二重として立て、また一重に重ねて立てるものであり、それとともに、ものごとは、明らかに分かり、説き明かされるところとなります。言い換えれば、悟りが腑に落ちるにおいて、ものごとが、まさにものごとの佇まいをきわだたせます。(「説き明かす」に当たるのはerklarenであり、er〈まさに〉klaren〈明らかにする〉というつくりで、「明らかにする、明らかに説く」の意です。「分かるようにする」に当たるのはverstantlich machenであり、verstandlich〈理解可能に〉machen〈為す〉という言い回しです。なおverstandlich〈理解可能〉はverstehen〈理解する〉から、verstehen〈理解する〉はstehen〈立つ〉から来ます。3-aの回を見てください。)

 二の文です。

 

 世のまるごとから切り離されているものごとというのは、なにひとつない。

 

 そもそも、世というのは、ありとあらゆるものごとを、まるごとひっくるめて指すことばであり、「すべてでひとつのもの」の悟りから語られてこそ、リアルになることばです(5-c-l)。なお、わたしたちは、みずからを、「わたし」と、はじめて呼ぶときから、その悟りを有します(二の章)。

 三と四の文です。

 

 分かちという分かちは、ただに主によること、わたしたちのなりたちにとってのことである。

 わたしたちにとっては、世のまるごとが、上と下、前と後ろ、素材と力、客と主などというように分かれる。

 

 たとえば、一階の人には、二階が上ですが、三階の人には、二階が下です。また、わたしたちも、ものごとも、ときに主となり、ときに客となります。そもそも、ものごとに、上と下、主と客といった分かちがあるのは、わたしたちが、わたしたちの都合から、覚えをもとに、考えるのアクト、もしくは分別をもって、分かち、括り、あるいはまた、考えるの、もしくは欲るのファンクションをもって、切り離し、纏め合わせることからです。すなわち、そのわかちは、分かつ者の都合と、分かつ者のなりたちに適いこそすれ、ものごとにとっては、いわば、よそからのお仕着せです。

 そして、五と六の文も、ともに括ることにします。この二つの文は、もともとセミコロンによって、いわば分かち結ばれており、二つで一つです。

 

 いちいちを見るにおいて、わたしたちに対しあうところが、わたしたちの悟りの、かかわりあわせ、ひとつに織りなす世によって、結びつき、世の節々となる。

 わたしたちは、覚えるによって分けたすべてを、考えるによって、ふたたび、ひとつにまとめる。

 

 いうところの「結びつき」、いうところの「まとまり」は、悟り、考えるの働き、つまりは世が賄います。そこにおいては、分かちという分かち、対という対が凌がれ、まるごとひとつとしての世と、すべてでひとつのものとしての〈わたし〉が、ひびきかわします。

 そして、次の段です。

 

 ひとつの対象が謎めくのは、切り離されてあるにおいてである。しかし、その謎めきは、わたしたちによって呼びだされてあり、〈考え〉の世のうちにおいては、またふたたび打ち棄てられもする。

 

 謎は、わたしたちが、ものごとに対しあいつつ、ものごとを分かつところから、出てきます。しかし、その対しあい、その分かちのもとには、きっと、考えるが控えています。そして、まさにそのことの悟りをもって、謎は止みます。もちろん、謎は、人によりけり、大小さまざま、いくたびも出てきます。すなわち、そのプロセスは、わたしたちが、それぞれに、いくたびも辿るプロセスであり、人となるプロセスです。

 この回のお終いには、「悟り」にちなんで、こんなことばを引きます。

 

 禅では「悟り」ということがよくでる。「悟りをもって則となす」というくらいで、禅では悟−頓悟の経験がなくてはならぬ。今この悟経験を分析してみると、二つの構成要素がある。一つは経験という心理的事実そのものと、いま一つは反省すなわち経験した事実に対する分別識である。前者を「禅体験」と名づけ、後者を「禅意識」と名づける。悟そのものは渾然たるものであるが、これを分析してみると分かり易いので、それを分けて、こんな二つのものを袂出するのである。それでこれをまた他の方面から見て、「無分別の分別」とも「無意識の意識」とも「無心の心」とも、「心即非心、是名心」ともいう。また「平等即差別・差別即平等」ともいってみる。つまり「不思量底を思量する」のである・・・

(秋月龍眠『世界の禅者鈴木大拙の生涯』岩波・同時代ライプラリー)から孫引きしています。)