この回に取り上げるのは、五の章の二十三の段です。
右に述べるところが、こういう証しをもたらす。世のいちいちのものにおいて、共通のものを探すにつき、考えるがわたしたちへとさしだすイデーとしての内容のほかに探すのは、お門違いである。世の内容を求めるにつき、わたしたちが、わたしたちの覚えを考えつつ見てとるによって得る、それそのもののうちにかかわりのある、イデーとしての内容のほかに求める試みという試みは、きっと、失敗する。人による、人となりのごとき神も、力や素材も、イデーを欠く欲り(ショーペンハウアー)も、わたしたちにとって、ユニヴァーサルな世ではありえない。それらのものは、いずれもみな、わたしたちの見るの限りある域に属するのみである。人による境のうちなる人となりは、わたしたちが、わたしたちについてのみ覚え、力と素材は、わたしたちが、外のものごとについて覚える。欲りというのは、わたしたちの境のうちなる人となりの、する働きとして表れるところでありうるのみである。ショーペンハウアーは、「抽象的な」考えるを世の担い手にすることを避けようとして、その考えるのかわりに、みずからへと、じかにリアルなものとして出てくるものを求める。その哲学者が信じるところ、わたしたちは、世を外の世として見やるかぎり、決して世に行き着くことがない。「事実、ただにわたしの想いとして、わたしに対しあう世の、つきとめられた意義にせよ、知るの主のただの想いとしての世から、世のさらなるありようへの移りゆきにせよ、つきとめる者がただなる知るの主(からだを欠いた天使の頭)でしかないのであれば、決して見いだされることはない。しかし、つきとめる者そのものは、かの世に根ざしている。すなわち、みずからを、かの世のうちに、個体として見いだす。言い換えれば、その者の知るは、想いとしてのまるごとの世の担い手であるが、どこまでもからだによってとりなされており、そのからだのアフェクションが、さきに示したとおり、分別にとって、かの世を観ることの出発点である。そのからだは、ただなる知るの主そのものにとって、ほかのいちいちと同じく、ひとつの想いであり、かずかずの客のうちのひとつの客であり、そのかぎりにおいては、からだの動き、アクションにしても、ほかの観られる客という客の変化と同じように知られるのみであって、それそのものの意義がまったく異なる趣において開かれないのであれば、よそよそしく、分かりがたくあるまでであろう。・・・からだとひとつであるにより個体として立ち現れる、知るの主にとって、そのからだは、ふたつの、まったく異なる与えられようにおいて与えられている。ひとつに、分別をもって観るにおける想いとして、かずかずの客のうちのひとつの客として、客の法則に従いつつであり、ふたつに、それと時を同じくしてでありながら、それとはまったく違ったふうに、すなわち、かの、だれしもにじかに知られているもの、欲りということばをもって呼ばれるものとしてである。欲するのまことのアクトのいちいちは、そのまま、きっと、からだの動きでもある。知るの主が、そのアクトをじつに欲するにおいては、きっと、時を同じくして、そのアクトがからだの動きとして現れるのを覚える。欲するのアクトとからだのアクションは、ふたつの客として知られる違ったありようでもなく、因果の絆が結ぶありようでもない。そのふたつは、因と果のかかわりにあるのではなく、ひとつにして同じものであり、ただ、ふたつのまったく異なる与えられようにおいて与えられている。ひとつには、まったくじかに、もうひとつには、観るにおいて、分別に。」そう論じるにより、ショーペンハウアーは、人のからだにおいて、欲りの「まことに客であるところ」を見いだすということが、正しいと信じる。かれは、からだのアクションにおいて、じかに、ひとつのリアリティ、ものそのものを、具象的に感じる、という意見である。その論に対しては、きっと、こういうものいいがつけられよう。わたしたちにとって、からだのアクションは、みずからの覚えによってこそ意識へといたるのであり、それとして他の覚えに勝るところはなにもない。わたしたちは、それを知ろうとするにおいても、それを考えつつ見てとるによって言い換えれば、それをわたしたちの〈考え〉とイデーという、イデーとしてのシステムのひとところとするによってこそ、知ることができる。
はじめの文から見ていきます。
右に述べるところが、こういう証しをもたらす。世のいちいちのものにおいて、共通のものを探すにつき、考えるがわたしたちへとさしだすイデーとしての内容のほかに探すのは、お門違いである。
覚えのいちいちに限りがあり、考えのいちいちにつながりがあります。そして、世ということばは、つながりのあるいちいちをすべてひっくるめて指します。(「述べる」に当たるのはausfuhrenであり、aus〈外へと〉fuhren〈導く〉というつくりで、「執り行う、詳しく論じる」といった意です。なお「証しBeweis」については、4-c-2の回を、「もたらすliefern」については、前の回を見てください。「お門違い」に当たるのはUndingであり、Un〈当を得ない〉ding〈こと〉というつくりで、いわば「ひがこと」の意です。)
二の文がこうつづきます。
世の内容を求めるにつき、わたしたちがわたしたちの覚えを考えつつ見てとるによって得る、それそのもののうちにかかわりのある、イデーとしての内容のほかに求める試みという試みは、きっと、失敗する。
考えるから、わたしたちの内に、考えが生じます。そして、考えると考えとをさしおくと、世がリアルでなくなります。さらには、リアルな世の代わりに、世とは異なるものごとが、世として立てられることにもなります。なお「内容」は「リアリティ」と読み換えてもいいはずです。(「イデーとしての」に当たるのは、ideellであり、Idee〈イデー〉から来ます。そしてIdee〈イデー〉は「より内容に満ちた、より中身の詰まった、より包むところに富む〈考え〉」です4-a-1。)
三の文です。
人による、人となりのごとき神も、力や素材も、イデ一を欠く欲り(シヨーペンハウアー)も、わたしたちにとって、ユニヴァーサルな世ではありえない。
そもそも、ユニヴァ一スということば、世ということばが、リアルに、内容をもって語られるのは、人が、考えるにおいて、すべてを貫く、すべてでひとつのものであるところからです(5-c-2)。
そして、四の文です。
それらのものは、いずれもみな、わたしたちの見るの限りある域に属するのみである。
すなわち、人となりも、力と素材も、イデーなしの欲りも、ユニヴァーサルな世のうちのひとところであるのみです。(「人による、人となりのごとき」に当たるのはmenschlich-personlichであり、menschlich〈人間的で〉personlich〈パーソナルな〉という言い回しです。なおpersonlichについては、4-b-4の回を見てください。)
すなわち、五の文です。
人による境のうちなる人となりは、わたしたちが、わたしたちについてのみ覚え、力と素材は、わたしたちが、外のものごとについて覚える。
たとえば、世を造った神、世を統べる神といっても、それがパーソナルに、人となりのごとく語られるかぎりは、人となりの覚え、パーソナルな覚えがもとになっており、その覚えの限りを超えてはいませんし、物理的な力、および物質は、わたしが覚えるかぎり、わたしへと外から及びくるものです。(「人による境のうちなる」に当たるのはmenschlich begrenzteであり、menschlich〈人間的に〉begrenzte〈境が画されている〉という言い回しです。)
六の文がこうつづきます。
欲りというのは、わたしたちの境のうちなる人となりの、する働きとして現れるところでありうるのみである。
欲りも、わたしが覚えるかぎり、わたしの内において、および、わたしのする働きとして、わたしの外へと現れるにおいてです。すなわち、欲りの覚えにも、さらにはまた感じ、すなわち情の覚えにも、それなりの限りがあります。そもそも、世は、考えるによってリアルになり、考えをもって内容がそなわります。(「欲り」に当たるのはWilleであり、wollen〈欲する〉から来て、「意欲、意志」の意です。)
そして、七の文です。
ショーペンハウアーは、「抽象的な」考えるを世の担い手にすることを避けようとして、その考えるのかわりに、みずからへと、じかにリアルなものとして出てくるものを探す。
ここまでに見てとってきたとおり、考えるは、わたしたちへと及び来る精神の働き(Wirken)、ないし働きかけ(Wirkung)であり、わたしたちの生みだす精神の働きであり、わたしたちのする精神の働き(Tatigkeit)です(三の章)。そのとおり、考えるは、主客を超えるところから、主という〈考え〉、客という〈考え〉を、わたしたちの内に生みだし(四の章)、わたしたちの内外を凌ぐところから、わたしたちの内、もしくは、わたしたちのこころへと及んで、考えるのアクト(Akt)となり、わたしたちのからだへと及んで、考えるのファンクション(Function)となります(四と五の章)。そして、考えるのアクトとファンクションにおいては、こころとからだのきわだちのゆえに、考えるの働き、ないし働きかけが、えてして意識されなくなり、ありがたみがなくなり、考えが、えてしてものをいわなくなり、薄っぺらになりがちです。いうところの「抽象的」は、その「ありがたみのなさ」「薄っぺらさ」を指しましょう。
八の文です。
その哲学者が信じるところ、わたしたちは、世を外の世として見やるにおいては、決して世に行き着くことがない。
その哲学者、ショーペンハウアーの信じるところは、まさにそのとおりです。そもそも、リアルな世は、内と外の釣り合いにおいて、すなわち、考えと覚えの合わさりにおいて、すなわち、まさに知るにおいて、生みだされます(5-c-2)。しかし、ショーペンハウアーは、さきに見たとおり、ナイーブにも、それとは気づかずに、からだの覚えを、それだけでリアルだと見なしており(4-c-3)、ここで見るとおり、ナイーブにも、あからさまに、からだのアクションの覚えを、それだけでリアルだと見なしています。ショーペンハウアーの論じるところは、くりかえし引くことをしませんが、これまた気高い文章です。どうぞ、いまひとたび本文のほうで味わいください。
そして、九の文です。
そう論じるにより、シヨーペンハウアーは、人のからだにおいて、欲りの「まことに客であるところ」を見いだすということが、正しいと信じる。
ショーペンハウアーは、欲するのアクトがからだのアクションとして現れることを、みごとに見てとっていますし、そのふたつのかかわりが、いわゆる因果のかかわり(Kausalitat)ではないことをも、みごとに見抜いています。しかし、欲りを、ただの客、つまり想いと見なすのみか、まことの客、つまり想いに尽きないものと見なしています。(「論じる」に当たるのはauseinandersetzenであり、auseinander〈別々に〉setzen〈置く〉というつくりで、「分析、整理、論議、解決」といった意です。「まことに客であるところ」に当たるのはObjektitatであり、Objekt〈客〉をもとにして、おそらく、ショーペンハウアーが造ったことばではないでしょうか。ちなみに、ふつう、「客親性」と訳されることばは、Objektivitatです。)
すなわち、十の文です。
かれは、からだのアクションにおいて、じかに、ひとつのリアリティ、ものそのものを、具象的に感じる、という意見である。
シヨーペンハウアーは、想念論を認めながらも、いや、認めるからこそ、欲りは、想い(想念)としてのみでなく、ものそのもの(物自体)として現れるというように想い念じることになります。(「具象的」に当たるのはinconcretoであり、いうまでもなくabstrakt〈抽象的〉に対します。そして「象」は「内容」とも「リアリティ」とも読み換えることができるはずです。すなわち「象」は、覚えのきざしにして考えのきざしです。また「意見」に当たるのはMeinungです。それについては、4-b-2,5-b-2の回を見てください。)
そして、十一の文です。
その論に対しては、きっと、こういうものいいがつけられよう。わたしたちにとって、からだのアクションは、みずからの覚えによってこそ意識へといたるのであり、それとして他の覚えに勝るところはなにもない。
わたしたちにとって、欲りも、ほかのものごとと同じく、覚えられるところであり、さらに、考えるの扶けをもって、嵩じるところでもあります。
すなわち、十二の文です。
わたしたちは、それを知ろうとするにおいても、それを考えつつ見てとるによって、言い換えれば、それをわたしたちの〈考え〉とイデーという、イデーとしてのシステムのひとところとするによってこそ、知ることができる。
欲りも、知られてこそ、リアルになります。言い換えれば、欲りも、考えるの扶けによって、考えの織りなしのうちに入ってこそ、まさしく欲りとなります。
なお、これは八の章から、ことに十一の章において詳しく取り上げられることで、いわば勇み足になりますが、欲するのアクトと考えるのアクトは同じアクトであり、欲するのファンクションと考えるのファンクションも同じファンクションです。すなわち、イデーなしの欲りが、まさに知るを介し、考えるの働きにより、イデーのうちに入るにつれて、欲するのアクトとファンクションがなりたちつつ、からだのアクションが、いわば板についてきます。考えるの働き(Wirken)、アクト、ファンクション、および、からだのアクションのかかわりは、いわゆる因(Ursache)と果(Wirkung)のかかわりでなく、メタモルフォーゼのかかわりです。いわゆる因と果が、知るによって知られる、横のかかわりなら、こちらは、まさに知るによって生みだされる、縦のかかわりです。
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この回は、ショペンハウアーの人となりに因んで、『新古今和歌集』から、前大僧正慈圓の歌を引きます。
世の中の睛れゆく空にふる霜の
うき身ばかりぞおきどころなき