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略伝自由の哲学第四章cー3

 これまでに、わたしたちは、考えるから考えへ(4-a)、考えから覚えへ(4-b)、そして、覚えから想いへ(4-c)と見る目を移しながら、それらのありようのいかなるか、それらのかかわりのいかなるかを、かさねがさね考えてきました。そして、覚えにかさねては、バークリーの考え方(世は、わたしの覚えであり、わたしやだれかの意識ないし精神の内にあるのみであり、つまりは神によって出てくる)を、また、想いにかさねては、カントにはじまる考え方(世は、わたしの想いであり、世そのものは、わたしたち人の知るかぎりでない)を、それとして述べつつ取り立て、取り立てつつ調べてきました。この回は、そのカントにはじまる考え方を、いよいよ判定する段をもって始まります。すなわち、二十九の段が、こう続きます。

 

 右に述べる考え方は、ナイーな意識の立場をナイーな現実論と呼び、それとの対で、みずからの立場をクリティカルな想念論として言い表すが、こういう誤りをしている。すなわち、それは、ひとつの覚えを想いとして述べるが、もうひとつの覚えを、それが駁しえたかに見えるナイーな現実論の意味において取り込む。それは、覚えが想いであることを証しだてようとするのに、ナイーにも、それみずからの器官のなりたちについての覚えを、客として罷り通る事実として取り込み、かててくわえて、ふたつの見るの域をまぜこぜにしているのを見すごす。それは、ふたつのあいだのとりなしを見いだすことができない。

 

 まず、いうところのナイーな意識の立場は、「覚えられるままが実のままである」という考えを、いわば、それとなく抱く立場であり(4-b-2)、それに対して、かの考え方は、覚えるわたしみずからを調べることによって、「覚えは覚えるわたしみずからの生みだす想いである」との考えを導きだしつつ、いわば、その考えをそれとして定かに抱くにいたります。よって、それがそれみずからをクリティカルな想念論と呼ぶのも、まさにむべなるかなです。(「クリティカルな」に当たるのはkritischであり、Kritik〈調べつつ判断することprufende Beurteilung、評定、批評、批判〉の形容詞形ですが、ここではnaivを「ナイーな」としたのに合わせて、「クリティカルな」とします。なおKritikは、ギリシャ語のkritike〈判定の技術〉から来ており、また知ってのとおり「純粋理性批判」「実践理性批判」というように、カントの著作のタイトルにも含まれています。そして「現実論」に当たるのはRealismusであり、「実在論、実利主義」といった訳もあります。それに対し「想念論」に当たるのはIdealismusであり、「観念論、理想主義」とも訳されますが(4-a-l)、ここでは「想い」に合わせて「想念論」とします。)

 

 しかし、そのクリティカルな考え方、ないし論、ないし主義は、ものごとの覚えが想いであり、主のであることを証しだてるのに、ナイーにも、わたしみずからの器官のなりたちの覚えを、実のものとし、客のこととするによっていました。ナイーにというのは、いわば、それとは気づかずにということでもあります。また、わたしみずからを見つつ覚えるにおいても、内と外、こころとからだを、分けることなく、ごちゃまぜにしていました。それもまた、それとは気づかずにです。よって、そこでは、内と外のかかわり、からだとこころのかかわりを見いだすこともできなくなります。(「覚えが想いであること」に当たるのはVorstell ungscharakter der Wahrnehmungであり、der Wahrnehmung〈覚えの有する〉Vorstellungs〈想いの〉charakter〈特徴〉という言い回しです。また、たとえば十九の段にある「わたしたちの覚えの主のきわだち(subjektiver Charakter unserer Wahrnehmungen)」の「きわだち」もCharakterであり、さらに「それとして述べる」「ことを述べる」あるいはたんに「述べる」とあるのも、Charakterからつくられるcharakterisierenです。いわば、ものごとのきわだちから述べることがなされますし、逆にまた、述べることによってものごとをきわだたせることができます。ついでにゲーテのことばを引きます。

 

 「そもそも、特徴というのは、ひとつのまるごとのひとところとして、そのまるごとにかかわりながらも、そこに取り紛れることなく、そこから浮き出ることで生じるものである。」

 

−「色彩論」817−)

 

 次の段です。

 

 クリティカルな想念論がナイーな現実論を駁することができるのは、それみずからが、ナイーな現実論者がするように、みずからの器官を客として存在すると思いなしてこそである。それは、みずからの器官のなりたちについての覚えと、ナイーな現実論が客として存在すると思いなす覚えとが、まるまる同じありようであることを意識する、まさにその時、前者の覚えをより確かな基としてみずからを支えることが、絶えてできなくなる。それは、きっと、それみずからの、主としてのなりたちをも、ただの想いの集まりと見なさなければなるまい。しかし、そのことをもっては、覚えられる世の内容が精神のなりたちの働きによって生みだされると考えることが、できなくなる。人は、「色」という想いが、ただに「目」という想いの様変わりであると思いなさなければなるまい。いうところのクリティカルな想念論は、ナイーな現実論を窃(ひそ)かに借りなければ、論としての証が得られない。後者が駁されるのは、人が、後者みずからの先立てるところを、もうひとつの域において、調べることをしないまま、罷り通すによってこそである。

 

 色や音や形も、まずは、わたしの覚えるところであり、わたしみずからの目や耳も、まずは、わたしの覚えるところです。ナイーな現実論は、前者の覚えも後者の覚えも実のもの、客のことと思いなし、クリティカルな想念論は、後者の覚えのみを実のもの、客のことと思いなします。そして、その思いなしは、どちらにあっても、それとはなしの、ナイーな思いなしです。(「思いなす」に当たるのはannehmenであり、an〈ついて〉nehmen〈取る〉というつくりで、「受け入れる、身につける、想い浮かべる、仮りに想う」といった訳があります。ここでは、いわば「考えを取る」という、わたしたちのする精神とこころの働きを指します。なお、さきの段の「取り込む」も、それに類することばであり、hin〈赴いて〉nehmen〈取る〉というつくりです。)

 

 クリティカルな想念論が、まさにそのクリティカルであることを貫き通すなら、きっと、目や耳、神経や脳はもとより、こころや意識や精神、まとめて、主としてのなりたち、もしくは、わたしみずからというものをも、想いの集まりと見なさなければならなりません。しかし、そうするとしたら、その論の立つ瀬がなくなります。はたして、目も、もともと想いであるなら、その想いが、どう様変わりしたら、色という想いになるのかという、おかしな問いが出てきてしまいます。さらに、わたしみずからも、もともと想いであるなら、その想いが、なんの働きによって生みだされ、また、いかなる働きによって、そのほかの想いを生みだすのでしょうか。これまた、問いようのない問いです。つまり、そこでは、働きによって生みだされるということも、様変わりということも、もはや意味をなくしています。(「働きによって生みだす」に当たるのはbewirkenであり、wirken〈働く〉のいわば他動詞形であり、たとえば「お湯をわかす」のように、その働きによって出てくるものを目的語とします。なおwirken〈働く〉については(4-a-2)の回を見てください。また「見なす」に当たるのはansehenであり、an〈ついて〉sehen〈視る〉というつくりで、「じっと見る、意に介する、見てとる」といった意があります。これもまた、わたしたちのする精神とこころの働きにして、いうならば「考えを取り付ける」働きを指します。ちなみに、Ansicht〈見解〉やAnsehen〈尊敬、人望、威信、風釆〉とったことばも、そこからつくられます。)

 

 つまり、いうところのクリティカルな想念論は、「覚えられるままが実のままである」というナイーな現実論の考えを、色や音については退けますが、みずからの目や耳については、識らず識らずに取り込み、調べることをしないまま罷り通すことによって、「覚えは想いである」というみずからの考えを支えつつ、ナイーな現実論を駁しています。(「罷り通す」に当たるのはgelten lassenであり、gelten〈意味や価値や効力をもつ〉lassen〈に任せる、ないし、ようにさせる〉というつくりです。また、さきに「罷り通る」と訳してあるのはgultigであり、geltenから来ることばです。もっとも「罷り通る」とは言っても、「罷り通す」とは言わないようですが、たとえば「立ち上げる」が罷り通るでんで、どうぞ罷り通させてください。)

 

 次の段です。

 

 そこから、このことが確かである。すなわち、覚えの域の内側を探ることによって、クリティカルな想念論は、論としての証が得られないし、もってまた、覚えから、その客としてのきわだちを奪うこともできない。

 

 すなわち、覚えについて、ここまでに見つつ覚えつつ考えてきたとおり、色や音も、まずは、わたしが覚えるところであり、同じく、わたしみずからも、まずは、わたしが覚えるところです。そして、わたしは、考えつつ、わたしみずからの覚えを主と定め、同じく、わたしは、考えつつ、色や音の覚えを客と定めます。その意味において、覚えの主も、覚えの客のひとっです(4-b-4,4-c-1)。クリティカルな想念論は、その客のうち、みずからのからだの器官のみを、窃かに、実の客として罷り通しています。しかし、実ということについては、これから調べるところですが(五、六、七の章)、まさにここまでに見つつ覚えつつ考えてきたところから、わたしたちは、色や音をまずは覚えの客として確かめることができますし、同じく、覚えの主も、まずは覚えの客として確かめることができます。(「奪う」に当たるのはentkleidenであり、kleid〈継うものを〉ent〈剥ぎ取る〉というつくりです。なお、ここにいう纏うものは、きわだちです。)

 

 次の段です。

 

 まして「覚えられる世は、わたしの想いである」との一文を、おのずから明らか、証を要しないこととして立てることは許されない。ショーペンハウアーは主著「欲りと想いとしての世」を、こういうことばをもって始める。「〈世はわたしの想いである〉−それは、ひとつのまことであり、生きつつ知りつつの者のいちいちとの重なりにおいてものをいう。ただ、人のみは、それを、省みて抽象した意識へともたらすことができる。そして、人がそのことを実にするにおいて、哲学としての慮りが人に出てくる。そのとき、人にとって、はっきりと確かになることながら、人は、太陽も識らず、大地も識らず、ただ太陽を視る目、大地を感じる手を識るのみである。人をかこむ世は、ただ想いとして、すなわち、どこまでも、もうひとつのもの、想いつつの者、人みずからとの重なりにおいてあるのみである。なにかひとつのまことがアプリオリに言い表されるとすれば、それがそのひとつである。そもそも、それは、ありとあらゆるかぎりの、また、考えうるかぎりの経験の形にして、ほかのすべて、時間、空間、因果ということよりも、さらにあまねき形を語ることばである。そもそも、それらのすべては、それを、まさに先立てる・・・」そこに言うまるごとが、さきに挙げた、ことのたちようを前にして、立ちゆかなくなる。すなわち、目も手も太陽や大地に劣らず覚えである。そして、人は、シヨーペンハウアーの意味において、かつ、かれの言い方に倣って、こう言い返すこともできよう。太陽を視る、わたしの目も、大地を感じる、わたしの手も、わたしの想いであること、まさに太陽と大地そのものに同じである。わたしが、そのことをもっても、また、かの一文を打ち棄てることになるのは、とにかく明らかである。そもそも、わたしの実の目と、わたしの実の手ならばこそ、太陽と大地という想いを、目と手の様変わりそのものとしてもつことができようが、目と手という、わたしの想いならば、そうはいかない。しかし、その想いについてのみである、クリティカルな想念論が語ることを許されるのは。

 

 「覚えられる世は、わたしの想いである」という考えが、カントによって取り込まれてより、多くの人々によって、自ずから明らかで、証を要しないことして引き取られてきたことが、またシヨーぺンハウアーの気高い文章によっても確かめられます。そして、その考えが、ここに「わたしたちの目も手も、世と同じく覚えである」という考えによっても意味と価値と効力をなくしますし、「わたしたちの目も手も、世と同じく想いである」という考えによっても棄て去されます。なお、主客ということのかかわりでは、さきにバークリーに対し、ひとことで「主の立て方が足りません」と言いましたが(4-b-3)、ここにクリティカルな想念論に対しては、同じくひとことで「客の立て方が足りません」と言うこともできます。そして、この四の章のタイトルは、「覚えとしての世」です。(「打ち棄てる」に当たるのはaufhebenであり、auf〈上に〉heben〈上げる〉というつくりで、「取り止める、取り消す」の意で、ことに考えとのかかわりでは、さきの「思いなすannehmen」や「取り込むhinnehmen」の逆です。また「止揚、揚棄」という訳もあります。そして、段のはじめと終わりの文にみえる「許される」に当たるのはdilrfenという許容のモードの助動詞であり、lassen〈任せる〉という放任のモードが客ないし目的語にまつわるのに対して、主ないし主語にまつわります。)

 

 そして、三十三の段にして、四の章のお終いの段がこう続きます。

 

 クリティカルな想念論は、覚えと想いのありように重ねて見解を得るのに、まるっきり適していない。十九の段から、それとなく言うところの分かち、すなわち、覚えについて、まさに覚えるあいだに起こるところと、覚えについて、すでにその覚えが覚えられる前から、きっと、あるはずのところとの分かちを、その論は引き受けることができない。そのことのためには、すなわち、きっと、異なる道が拓かれる。

 

 ここまで、わたしたちは、まず、働き(Wirkung)と、する働き(Tatigkeit)とを、はっきりと分かちました(4-a-3)。

 

 また、内の覚えへと及びくる働き(覚えと想いのあいだにおける「なにかのなりゆき」4-b-4)と、外の覚えにおける働き(刺激、伝達など、ものごととからだにおけるなりゆき4-c-1)とを、それとなく分かちました。

 

 さらに、覚えの客の側のプロセスとして、相が現れ(象ないし現象)、相が定まり(像ないし対象)、相がモードを湛え(様ないし印象)、相がきわだつ(特徴ないし表象)ことを、それとの対で、覚えの主の側のプロセスとして、覚えるのナイーブさ、覚えるアクト、覚えるファンクション、それとして述べる(逆にまた抽象する)ことをも、それとなく分かちました(4-b-2から4-c-3)。

 

 そして、それらを意識して分かつこと、かつ、意識してかかわりあわせ、意識してかさねあわせることが、これからの仕事です。(「引き受ける」に当たるのはvornehmenであり、vor〈前に〉nehmen〈取る〉というつくりで、「取りかかる、

手がける」の意でもあります。そして、いうところの取るは、わたしのする働きであり、いうところの手は、わたしみずからのなりたちのひとところです。)

 

 お終いに一句

 

かさねとは八重撫子(やえのなでしこ)の名成(なる)べし  曾良