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略伝自由の哲学第四章a−1

 四の章に入ります。まず、はじめの二つの段を取り上げます。

 

 考えるを通して、〈考え〉のかずかずとイデーのかずかずが生じる。ひとつの〈考え〉がなんであるかは、ことばをもって言うことができない。ことばは、ただ、人をして、人が〈考え〉のかずかずをもつことに気づかせることができる。ある人がひとつの木を視るにおいて、その人の考えるがその人の見るところに応じる。すなわち、対象へと、ひとつのイデーの対が加わってくる。そして、その人が、対象とイデーの対を、ともどもでひとつと見てとる。対象が、その人の見るの境から失せるにおいて、ただ、イデーの対が残る。それが対象の〈考え〉である。わたしたちの経験が広がるほどに、わたしたちの〈考え〉のまるごとの数が大きくなる。しかし、〈考え〉のかずかずがばらばらにあるのでは決してない。それらは結びあわさって、ひとつの、法則ある、まるごとをなす。「器官のなりたち」という〈考え〉が、他の〈考え〉、たとえば「法則ある繰り出し、育つということ」に結びつく。他の、いちいちのものごとについてつくりなされた〈考え〉が、まるまる、ひとつに折り合う。わたしがかずかずのライオンについてつくりなす〈考え〉のすべてが、折り合って、「ライオン」というまとまった〈考え〉をなす。そのように、いちいちの〈考え〉が繋がって、ひとつの、まとまりある、〈考え〉のシステムをなし、そのうちにおいて、それぞれが、それぞれのことさらな場をもつ。イデーは、質において、〈考え〉と異ならない。それは、ただ、より内容に満ちた、より中身の詰まった、より包むところに富む〈考え〉である。わたしは、きっと、ここ、この場において、このことが認められることに、ひとつの、ことさらな値いを置かなければならない。すなわち、わたしが、わたしの起点として、考えるを引き立てたことであり、〈考え〉とイデーをではないことである。それらは、まず考えるを通して得られる。それらは、すでに考えるを先に置く。よって、わたしが、それそのことにおいて安らい、なにによっても定められてはいない、考えるの自然に重ねていうところは、一重にたやすくは〈考え〉の上へと引き移すことができない。(わたしは、そのことを、ここに認めて表す。ここに、わたしとヘーゲルの違いがあるからである。かれは、〈考え〉を、はじめのもの、そもそものみなもとであるものとして据える。)

 〈考え〉は、見るからは得られない。そのことは、はや、こういうことのありようから出てくる。育ちつつの人が、永きにおよび、ゆったりと、まず周りの対象のかずかずに向けて〈考え〉のかずかずをつくりなす。〈考え〉のかずかずは、見るに向けて、付け加えられる。

 

 さきの三の章を通して見てきたとおり、考えるを見るにおいて、こう言うことができます。わたしたちは、考えるを通して、考えるという〈考え〉を生みだします。そして、わたしたちは、考えるという〈考え〉を立てるところから、〈考え〉のかずかずを立てることができます。そもそも、〈考え〉のかずかずが、考えるを通して生じていればこそです。(「生じる」に当たるのは entstehenであり、ent 〈分かれて〉stehen〈立つ〉というつくりで、「起こる」の意です。また「生る」ということばも当たります。)

 

  たとえばひとつ、木という〈考え〉を取り立てて、ことばで言ってみるとします。木というのは、根を土に張り、幹を立てて水を汲みあげ、枝を空に伸ばし、葉を広げて光を受け・・・。たんにわたしが知っているだけをあげていくにしても、なんだかきりがなさそうです。そもそも、「木というのは、かくかくしかじか」というにおいて、その「かくかくしかじか」ということの内に、土や水といった〈考え〉のかずかずが包まれ、それらの〈考え〉のすべてが、「木というのは」ということの内に含まれることになります。いったい、木というのは、なんでしょうか。(「かずかず」と「ひとつ」は、原語の複数形と単数形に当たります。すこしうるさいようですが、単複の数がものをいうので、厭わず訳し分けました。)

 

  ただ、わたしは、ことばをもって言うことで、わたしが〈考え〉のかずかずをもつことに、気づくことができます。わたしは、なるほど、ことばをもって、考えるようになりましたが、しかし、〈考え〉をことばで言おうとするのは、きっと、考えるからです。よしんば、考えに欠けることを言うにおいてさえ、かろうじて、言おうとだけは考えて言っているものです。そして、そのことにも、わたしは、まさにことばをもって言うことで気づくことができます。その意味において、みずからとの語らいにおいても、他の人との語らいにおいても、ことばは、気づきのために用いたいものです。言い紛らわすとか、言い定めるとか、言い負かすとか、言いくるめるとかではなく・・・(「・・・に気づかせる」に当たるのはaufmerksam machen であり、・・・〈を〉auf〈上げて〉merksam〈気づきうるように〉machen〈する〉というつくりです。なお、merksamはmark〈標〉からきます。)

 

  さて、わたしは、ひとつの木を視るにおいて、見るをもって迎え、考えるをもって向かいます。そのとおり、わたしがもつことを通して、考えるが見るに応じます。(「視る」と「見る」については、すでに1の回や3−bの回でふれました。「視る sehen」は主に目をもって見て分かることであり、考えるを含みますが、「見る beobachten 」は考えるを含まず、また目のみか、耳や鼻・・さらには、こころ、精神のなりたちをもってのことでもあります。)

 

  すなわち、わたしが迎えつつ向かうにおいて、わたしに迎えられつつ向かわれるところが、わたしに対して立つところとなり、それにつれて、見るの側から与えられているところへと、考えるの側から、ひとつのイデーの対が加わってきます。(「対象」に当たるのは Gegenstand であり、Gegen〈対して〉 stand 〈立つ〉というつくりです。さしあたりは「象」という字にとらわれずに読んでください。また、「加わってくる」に当たるのは hinzutretenであり、hinzu 〈その方へ〉 treten 〈歩む〉というつくりで、「歩み寄る」の意です。なお、「歩む treten 」は「立つ stehen 」との縁であり、また、いわば漸進性をも伝えていましょう。もちろん、その速い遅いは、ものごとによりけり、人によりけりです。)

 

  その考えるの側から加わってくるところと、見るの側から与えられてあるところは、まさに対です。言い換えれば、わたしが迎えるところと、わたしが向かうところは、二つで一つです。すなわち、わたしは、ひとつの木を見てとります。(「見てとる betrachten 」についても、すでにの3−bの回や3−gの回においてふれてあります。)

 

  その、ひとつの木を見てとるにおいて、とられるところは、見られるところが去っても、残ります。すなわち、木という〈考え〉が留まります。のちのちにも、わたしが想い起こそうとすれば、想い起こすことができます。

 

  そして、見てとること、ないしは、見てとることを押し進めていくことを、経験と言いましょう。それは、〈考え〉のまるごとの数が大きくなること、考えがたわわに分かたれることです。すなわち、経験を通して〈考え〉が富むのは、足し算のごとくでなく、割り算のごとくです。(「経験」に当たるのは Erfahrung  であり、fahren〈先へ進む〉から来て、もとは「旅する」の意でした。もちろん、「立つ」「歩む」と来て「旅する」と続きます。その続きも、それとなく読みとれましょう。)

 

  さて、それに続くところを、いまひとたび引くことにします。

 

   しかし、〈考え〉のかずかずがばらばらにあるのでは決してない。それらは結びあわさって、ひとつの、法則ある、まるごとをなす。

 

 それは、まさに考えるを見るところからこそ、言えることです。いうところの「まるごと」は、ほかでもなく、考えるという〈考え〉のことです。その〈考え〉は、ひとつの〈考え〉として、いわば最も大きな〈考え〉であり、ほかのひとつひとつの〈考え〉が、そのうちにおいて、法則をもって、ひとつに結びあわさってあります。いうところの「法則」は、ほかでもなく、考えるという〈考え〉の法則です。

 

  たとえば、根も、幹も、枝も、葉も、木の器官であり、それらが繰り出し、育って、なおさらに木となります。それは、どちらかというと、いちいちの〈考え〉の側から言っています。そのことを、ひとつの、まるごとをなす〈考え〉の側、すなわち、木というイデーの側からは、こうも言い換えることができます。木が育ち、根、幹、枝、葉を繰り出し、それらがますますいちいちの器官としてなりたちます。そして、どちらのプロセスにおいても、辿られるのは、木がなりたつという、同じ法則ないし考えです。(「器官のなりたち」に当たるのは Organismus であり、「器官の総合システム gesamtes System der Organe 」「生き物 Lebewesen」といった解があり、比喩的に「機関、機構」の意でも用いられるとあります。ここでは、さきに Organを「器官」と訳し、Organisationを「なりたち」と訳したので、そのあいだをとって「器官のなりたち」としました。すなわち、器官という〈考え〉が、なりたちという〈考え〉に繋がり、なりたちという〈考え〉が器官という〈考え〉に重なることの気づきから、そのような気づかいをしてみました。)

 

 また、わたしが、あのライオン、このライオンについてつくりなす〈考え〉のすべてが、折り合って、「ライオン」というまとまった考えをなします。そのまとまった〈考え〉を、類といい、またイデーといいましょう。すなわち、わたしのもつ、あのライオンについての〈考え〉も、このライオンについての〈考え〉も、「ライオン」という類もしくはイデーの内のどこかに納まっています。いや、それどころか、わたしにとっては、あのライオンについての〈考え〉と、このライオンについての〈考え〉と、「ライオン」というまとまった〈考え〉とが、さしたる違いなしにあるくらいです。言い換えれば、わたしにとっては、どのライオンもライオンのなかのライオン一匹です。それは、わたしが一匹一匹のライオンについて乏しい経験しかしていないからでもありますが、また、一匹一匹、ほとんどどのライオンも、「ライオン」という、ライオンという類もしくはイデーに、ほとんど余すところなく重なりあうからでもあります。(「つくりなす」に当たるのは bilden であり、「かたどる」「成す」といった意です。ここではいわば「それなりの想いをもつ」ことであり、「考えを、とり、つかみ、とらえる」ことによります。)