この回をもって三の章を一巡りすることになります。残るは三つの段で、まずはこうです。
わたしは、ここまで、考えるについて語るのに、その担い手、人の意識を顧みなかった。いまにおいて哲学する者のおおかたは、わたしに、こう言い返すだろう。考えるがある前に、きっと、ひとつの意識がある。よって、意識から起こすべきであり、考えるからではない。考えるは、意識なしには、ないと。わたしは、きっと、それに対して、こう答える。わたしが、考えると意識のあいだに、どんなありようがあるかについて明るめようとするにおいては、きっと、それについて追って考える。わたしは、そのことをもって、考えるを先に据える。さて、人は、それにつけて、なるほど、こう、ことばを返すこともできよう。哲学する者が、意識をとらえようとするにおいては、考えるを用いる。哲学する者は、その限りにおいて、考えるを先に据える。しかし、ありきたりに生きるにおいては、考えるが意識の内に生じる。よって、考えるは、意識を先に据えると。そのことばは、世の生みなし手にして、考えるを造りだそうとする者に向けられるならば、疑いなく、ふさわしいことばであろう。人は、おのずからながら、前もって意識を立てずには、考えるを生じさせることができない。しかし、哲学する者にとって、ことは、世を生みなすでなく、世の生みなしをとらえるである。哲学する者は、そこからまた、世を造りだすに向けてでなく、とらえるに向けての起点を探すことになる。わたしは、人が、哲学する者に対して、こう詰るのを、まったくおかしいと見つける。哲学する者は、なによりも、みずからの原理の正さに気をつかって、とらえようとする対象に、すぐには取りかからないと。世の生みなし手なら、きっと、なによりも、考えるに向けて担い手をいかに見いだすかを、識っていただろう。しかし、哲学する者は、きっと、あるものをとらえるべく、確かな基盤を探す。わたしたちが、意識からはじめて、それを考えつつ見てとるの下に据えても、その前に、考えつつ見てとるによって、ものごとにつき明らかさが得られるかどうかについて、なにも識らなくては、なんになるのか。
ここでもまた語らうという形において論が進められます。しかも、それは、これからありえよう語らいです。そして、テーマは、ものごとの起こり、ないし、ものごとの後先です。(はじめから二つ目の文の「・・・だろう」に当たるのはwerden であり、「未来」というモード(話法、気分)を表します。)
いまの(いまから百年ほど前のいまです)哲学の主な流れ、たとえば一の章に名の見えるスペンサーやハルトマンがリードする流れは、意識から考えが抽象される、もしくは憶いから考えが紡ぎだされるとの考えを、識ってか識らずか原理として立て、方法として通します。そこからやって来ようものいいに対して、『自由の哲学』の書き手は、こう言い返します。
わたしが、考えると意識のあいだにどんなありようがあるかについて明るめようとするにおいては、きっと、それについて追って考える。わたしは、そのことをもって、考えるを先に据える。
そのやりとりは、いわゆる哲学者たちのあいだの、専門的な、悪く言えば実の世に疎いやりとりのようですが、それだけには尽きません。(なお「きっと」に当たるのはmussen であり、「必然」というモードを表します。すでにーの章においてふれたとおりですが、それは、まさに考えるをきわだたせるるところから生じる、明らかで、確かなモードです。)
人がいわゆる哲学を嫌い、いわゆる哲学者を悪く言うのは、おおかた、普通の、一般的な意識からです。そして、意識から考えが抽象されるとの考えを立てる哲学者がよりどころとするのも、こういう、一般的な、ありきたりの意識です。人は、ありきたりに生まれ、ありきたりに育つにおいて、だんだんにものごころがつき、だんだんにはっきりと考えるようになる・・・。(「さて」ではじまる文における「・・・こともできよう」に当たるのはkann であり、「可能」「認容」といったモードを表します。)
なるほど、それはそのとおりですが、なおかつ、『自由の哲学』の書き手は、こう言い返します。
そのことばは、世の生みなし手にして、考えるを造りだそうとする者に向けられるならば、疑いなく、ふさわしいことばであろう。
藪から棒のように「世の生みなし手」が引き合いに出されて面食らうようですが、言わんとするところは、だんだんにはっきりと分かってきます。(「・・・ならば、・・・であろう」に当たるのはwurde,wareであり、いわゆる接続法として、「仮定」という意を表します。)
世は、それなりのありようをもってあり、それなりのなりたちをもってなりたちます。その世の内に、意識があり、考えるが生じます。それは、世のこととして、おのずからなプロセスです。(「おのずから」に当たるのはnaturlichであり、Natur〈自然〉の形容詞形です。)
かたや、人は、世のありようとなりたちをとらえようとし、とらえるための明らかで確かなよりどころを探そうとします。それは、おのずからでなく、まさに人のする働きであり、まさに人が考えるから起こすプロセスです。(「追って考えるnachdenken」「考えつつ見てとるdenkend betrachten」は、まさにその「する働きTatigkeit」を指しましょう。)
そして、先の回に言うとおり、わたしが、世を見てとるに、考えるから起こすにおいては、ことのまるごとを見とおします。すなわち、ことが世のこととして生じ、起こり、立つプロセスと、ことをわたしが生じさせ(支え)、起こし(持ち上げ)、立てる(担う)プロセスとが、同じひとつのプロセスとして、隈なく繰り広がります。そこにおいては、ことが世のこととして大らかにあり、わたしが、ことの担い手として、慎ましくあります。その、世とわたしのありようは、さながら晴れのありようのごとくです。(「担い手」に当たるのはTragerであり、tragen〈担う〉から来て、「担う者」の意です。)
それにひきかえ、わたしが、世を見てとるに、ありきたりの意識から起こすにおいては、世のことと人のことを、識らず識らずのうちに、はきちがえがちです。言い換えれば、世の働きを人のする働きのごとくに思い描いたり、人のする働きを世の働きのごとくに思い倣していたりします。たとえばですが、「米作り」といいますが、米が出来るものでもあることが、とくに米を作らない人からは、忘れられていたりします。あるいは「・・・になっています」「・・・と考えられます」とか、あるいはまた「庶民は・・・」「世論は・・・」といった言い回しが、ときどき耳障りに聞こえるのも、いうところのはきちがえが、どこかしらに紛れ込んでいるためです。なるほど、ありきたりの意識は、ありきたりという意味においては慎ましやかですが、しかし、人が、そこをよりどころにしてしでかすはきちがえには、はなはだしい偏りがあり、きわめて厚かましい行き過ぎがあります。そして、その偏りが、やがて張り合いを殺ぎ、その行き過ぎが、いつか行き詰まること、さながら褻(け)のありようのごとくです。(「ありきたり」に当たるのはgewohnlich であり、gewohnen〈慣れる、馴染む〉から来て、「習いの、お馴染みの」といった意です。)
すなわち、右は、なによりも、ひとりの人が晴れのありようと褻のありようのあいだで交わす語らいであり、また交わすに値する語らいです。もちろん、いわゆる哲学者たちにも交わし合って欲しいものですが・・•。そして、その語らいは、きっと、いまも(『自由の哲学』が書かれてから百数年の後のいまです)、というより、いまにいたって、なおさらアクチュアルな、なおさらに人の要するところとなっています。(「哲学する者」に当たるのはPhilosophであり、ありきたりには哲学者と訳されますが、右のとおり、いわゆる学者を指すには尽きないはずですので・・・ 。また「世の生みなし手」に当たるのはWeltschopfer であり、習いでは「創造主」と訳され、漢語の「造物主」にも通じるでしょうが、Welt〈世〉をそのまま生かしました。なお、その語は、後にひときわ鮮やかに使われます。)
そのとおり、いや、すでにはじめの文にあるとおり、人の意識は、考えるの担い手です。ただ、そのことが、晴れのありようにおいては、見てとられつつ識られており、褻のありようにおいては、見おとされつつ忘れられています。そして、すこし先取りして言いますが、人の意識は、考えるを担おうとして担うほどに、なおさらに人の意識となります。(「人の意識」に当たるのはdas menschliche Bewusstseinで、menschlich〈人の〉はMensch〈人〉の形容詞形であり、比較級もありえる形です。つまり、人間はより人間的でありうる存在です。そのことについては、後に章を追って見ていくことになります。)
ともかく、この段は、書き手からの、こういう問いをもって結ばれます。
わたしたちが、意識からはじめて、それを考えつつ見てとるの下に据えても、その前に、考えつつ見てとるによって、ものごとにつき明らかさが得られるかどうかについて、なにも識らなくては、なんになるのか。
逆に、ものごとについての明らかさが得られるのは、考えつつ見てとるによってであることが、考えるを見てとるによって識られます。 そのとおり、明らかさ、ないし識は、考えつつ見てとるほどに嵩じます。そして、前の回においてふれた、とる、つかむ、とらえるは、その嵩じるのほどをこそ伝えていましょう。(「下に据える」に当たるのはunterwerfenであり、unter〈下に〉werfen〈投げる〉というつくりで、「・・・の支配下におく」「・・・にゆだねる」といった意です。)
さて、この回は、はやばやと、ここまでのことにちなんで、こんな旬を引きます。
己が身の闇より吼えて夜半の秋 蕪村