すなわち、これは疑いのないことであるが、考えるにおいて、わたしたちは、世のことを、ひとつの端においておさえている。そこに、わたしたちが、きっと、いあわせればこそ、ことが立つに至る。そして、それが、まさに、要のことである。これは、まさに、わたしたちに対して、ものごとが謎めいて立つことの基であるが、わたしたちは、それらが立つに至ることに与っていない。わたしは、それらを、ただ、前に見いだすばかりである。しかし、考えるのもとにおいては、それがいかになされるかを、わたしは識る。そこから、世のことということを見てとるに向けての、なによりみなもとの出発点が、考えるである。
この回は、三の章の二十五の段からです。「すなわち」とあるとおり、この段も、これまでのことをまとめるかたちで述べられています。よって、さきの回と同じく、この回も、これまでのことを振り返るところからはじめることにします。これまでのことを振り返ることが、この段に述べられていることを、まさにこととして、いきいきと起こす助けとなります。まずは、十二の段に、こうありました。
すなわち、わたしたちが考えるに重ねてする見ることの、はじめのひとつであるが、考えるは、わたしたちのつねづねにおける精神の生きるの、見られない元手である。
すなわち、まずもって、世のものごとが、つねづねの見るの客となり、考えるが、例外の、気高い見るの客となります。その意味において、考えるは、世のことのひとつであり、わたしたちみずからのする働き(向かう働き、もしくは及ぼす働き)の上に安らいます。(「世のこと」に当たるのはWeltgeschehen であり、Welt〈世〉は、〈わたし〉に対しあうところであり、geschehen〈こと〉は、起こること、生じること、出来することです。)
また、わたしたちは、考えるを生みだしもします。もしくは、前へともたらしもします。そこから、考えのプロセス(考えるの辿った跡)が、追って考えられます。もしくは、後から考えて見られます。その意味において、考えるは、考えのプロセスの前に潜む客となり、後ろに控える客となります。なお、潜む客というのも、控える客というのも、例外の見るの客という意味です。すなわち、例外的にきこえるかもしれませんが、その客は、つねづねの見るに、見られない客であり、例外の見るを通して、まさに「見られない客」として見てとられます。
また、考えのプロセスが追って考えられるのは、わたしたちみずから、すなわち、わたしたちのこころとたからだを基にしてでもあります。その意味において、考えるは、わたしたちの下の基に重なる客となります。そして、ここまでのことが、主に十三の段から十七の段までのことです。そのとおり、考えるは、わたしたちの上へも、前へも、後ろへも、下へも、わたしたちがあらしめる客であり、もしくは、わたしたちが立てる客であり、まさにわたしたちがあらしめ、わたしたちが立てるゆえに、わたしたちにとって、じかに親しい客として立つに至ります。その意味において、考えるは、謎めきません。(なお「立つに至る」に当たるのはzustande kommem であり、stande〈立つ〉zu 〈へと〉kommen 〈来る〉というつくりであり、ことが起こり、生じ、出来するプロセスを指しましょう。)
そして、それらのこととともに、わたしたちのなりたちのことがあります。さかのぼって、六の段のはじめに、こうありました。
さて、見るに当たって、わたしたちのなりたちは、わたしたちがそれを要することのうちにある。
すなわち、まずもって、考えるを見るは、ただにわたしたちのする精神の働きであり、そのまま、わたしたちの紛れのない精神のなりたちです。もしくは、まさにわたしたちが、まさにわたしたちの精神の働きとして立てる、まさにわたしたちの立ちようであり、わたしたちのひとところです。また、その、わたしたちの紛れのない精神のなりたちを、わたしたちは、下へ、みずからへと引き寄せることができます。そして、その、わたしたちの紛れのない精神のなりたちとの重なりにおいて、わたしたちは、わたしたちのこころとからだのなりたちを、安らかに識り、しっかりと起こします。逆に、また、わたしたちが、わたしたちのこころとからだのなりたちを、まがりなりにも知っており、まがりなりにしろ起こすのも、ほかでもなく、その、わたしたちの紛れのない精神のなりたちとの重なりにおいてです。
また、その、わたしたちの紛れのない精神のなりたちを、わたしたちは、前へ、わたしたちの他のものごとへと引き寄せることができます。そして、その、わたしたちの紛れのない精神のなりたちとの重なりにおいて、わたしたちの他のものごとのかかわりとありよう、もしくは、ことのがらと、もののたたずまいを、安らかに識り、しっかりと立てます。逆に、また、わたしたちが、わたしたちの他のものごとのかかわりとありようを、どうにかこうにか知っており、どうにかこうにか立てるのも、ほかでもなく、その、わたしたちの紛れのない精神のなりたちとの重なりにおいてです。そして、ここまでのことが、主に六の段から二十二の段までのことです。
そのとおり、考えるを見るは、ただにわたしたちのする精神の働きとして、紛れのないわたしたちの精神のなりたちとして、いわば気高く、上に安らうところから、その安らかさともども、下ヘともたらされて、わたしたちのこころとからだのなりたちに重なり、前へともたらされて、わたしたちの他のものごとのなりたちに重なり、それらのなりたちが、しっかりと識られます。その意味において、考えるを見るは、しっかりとした点であり、わたしたちが、世のものごと、すなわち、わたしたちみずからのなりたちと、みずからの他のものごとなりたちを、安らかに見てとる、そもそもの要です。
そして、二十三の段のお終いに、こうありました。
考えるを見るについては、まさにわたしたちが、まずもって、ひとつの客を生みなす。他の客という客があることは、わたしたちの及ぼす働きなしに、工面されている。
すなわち、わたしたちにとって謎めくのは、例外の見るの客でなくて、つねづねの見るの客です。言い換えると、わたしたちが疑いうるのは、ただ前に見いだされるばかりの客です。(「前に見いだす」に当たるのはvorfindenであり、vor〈前に〉finden〈見いだす〉というつくりです。そして、hervorbringen 〈生みだす、前にもたらす〉の対であり、また、Zutun〈及ぼす働き〉の対でもあります。)
そして、わたしたちは、まさに例外の見るの客から、つねづねの見るの客を、疑うでなくて、問うことができます。すなわち、いかに工面されているのか、というようにです。その問いは、ほかでもなく、客のなりたち(もしくは、かかわりとありよう)への問いであり、きっと、みずみずしく、親しい問いでもあります。なにしろ、その問いは、まさにわたしが立てる問いであり、わたしの前において、世のものごとを親しく迎えつつ、わたしの下において、みずからをいきいきと起こしつつの問いですから。そして、答えは、他でもなく、例外の見るの客から来たります。その答えをもって、世のものごとのなりたちが、しつかりと、安らかに立つようになります。なにしろ、その答えは、わたしが、わたしの上から下へと、安らかに、わたしの後ろから前へと、しつかりと及ぼす答えであり、世のものごとの「横たわるvorliegen」なりたちを(六の段)、みずみずしく、親しく立つに至らせる答えですから。
そして、わたしたちの見るは、わたしたちが、さらに培うことのできることでもあり、なりたちというなりたちは、わたしたちが、さらに立てることのできるところです。すなわち、ひとつに、考えるを見るという、わたしたちの紛れのない精神のなりたちが、なおさらに生みなされうるところです。またひとつに、それとの重なりにおいて、世のものごとというものごとのなりたち、すなわち、わたしたちのこころとからだのなりたちと、わたしたちの他のものごとのなりたちが、なおさらに起こされうるところです。その意味において、見るの客という客が、わたしたちの見るを、みずみずしく、親しく引きつけるところとなり、わたしたちによって、しつかりと、安らかに立てられることを待つところとなりえます。そして、いうところの上も、前も、後ろも、下も、いわば限りのある上であり、前であり、後ろであり、下であり、その限りは、わたしたちの見る、ないし、わたしたちのなりたちに限りのあるところから来ています。その意味において、わたしたちは、考えるを、上においてであれ、前、後ろ、下においてであれ、そのつど、ひとつの端において、おさえているまでです。まさに、世のことごとのうち、なによりも、考えるこそは、その大いなる広がりにおいて、「世のことWeltgeschehen」と呼ばれるにふさわしいものです。なお、そのことが、引き続き、四、五、六、七の章において、詳しく光が当てられ、引き立てられていきます。
とにかく、わたしたちが「ほとんどしていない(六の段)」ことながらも、「考えるを見るについては、まさにわたしたちが、まずもって、ひとつの客を生みなす」とある、その生みなすが、わたしたちのしつかり立つことの要であり、まさにそのひとつの客が、わたしたちの安らかに世を見てとることの、ぎりぎりのはじまりです。もしくは、わたしたちが、世を見てとることを遡るにおいて、つまるところです。逆に、また、わたしたちが、まがりなりにも立って、どうにかこうにか世を見てとるのも、それとは識らないものの、考えるの助けによってです。(なお「なによりもみなもとの」に当たるのはursprunglicher であり、urspru nglich すなわちur 〈おおもとにおいて〉sprung 〈湧くところ〉lich〈の〉という形容詞の比較級です。)