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略伝自由の哲学第三章d−2

 さて、考えるを見ることの、まさにことさらなところが、さらにこう述べられます。

 

 人が、考えるを、見るの対象とするにおいては、その残りの、見られる世の内容へと、つねづねなら見る目を免れるところを、継ぎ足す。しかし、趣は変えない。それは、人が他のものごとに対するありようとも同じである。人が、見るの客の数を増やす。しかし、見るの方法は増やさない。わたしたちが他のものごとを見るにおいては、世のことへと−わたしは、まさにいま、見るをも、世のことのうちに数え入れる−ひとつの、見すごされるプロセスが紛れ込む。すなわち、他のあらゆることと異なること、ともには顧みられないことが、ありあわせる。しかし、わたしが、わたしの考えるを見てとるにおいては、そういう、顧みられない元手が、ありあわせない。そもそも、まさにいま、後ろの基において浮かぶところも、また、ただに、考えるである。見られる対象が、そこへと向けられる、する働きと、質において同じである。そして、そのことも、また、考えるの、まさにそれならではの独自さである。わたしたちが、考えるを、見るの対象とするにおいては、質において異なることの助けをもってするようには強いられず、同じ元手の内にとどまることができる。

 

 わたしたちは、つねづねに、ものごとを見てとります。しかも、そのとるを、見すごしつつです。しかも、そのとるのうちにして、考えを、ものごとへと、重ねつつです。(「継ぎ足す」に当たるのはdazufiigenであり、dazu 〈そこへと〉fiigen 〈継ぐ〉というつくりです。なお「継ぐ」は「宛てがう、嵌めこむ」の意です。)

 しかし、つねづねに、ものごとを見てとるも、気高く、考えるを見てとるも、見てとるに変わりはありません。ともに趣であり、方法は、まさに同じです。(「趣」に当たるのはArtであり、「方法」に当たるのはMethode 、もとはギリシャ語でmethodos であり、どこそこへの道、探るの歩み、といった意だそうです。すなわち、面の向きから、歩みと道が続きます。なお、そのことについては、やがて六の章において詳しく述べられます。)

 そして、まさにこのこと、わたしが考えるを見る、よって、わたしが明らかにありはじめる、からすれば、考えるも、見るも、まさにわたしがわたしを生かす元手であり、まさにこととして世に属します。(「まさにいま」に当たるのはjetzt であり、まさに「いま」のことです。すなわち、わたしが考えるを見つつである、まさにいまです。そもそも、考えるを見るは、いつなりとも、まさにいまのこととしてのみ、ありうることです。)

 ただ、考えるを見てとるにおいては、そのとるが 、見てとられます。 そのとるが、とられるところと、質において同じです。(「後ろの基」に当たるのはHintergrund であり、Hinter 〈後ろの〉grund〈基〉というつくりです。すなわち、いうところの後ろは、生みだす〈hervorbringen前へともたらす〉の対です。言い換えれば、人が、まずもっては上にある基を、生みだすによって、前へともたらし、かつ、生みだすを見てとるにおいて、後ろにももたらします。なお、いうところの前後は、わたしたちのからだの前後でもありえますが、そもそもにおいては、どこにでも設けることのできる「ひとつの、しつかりとした点」を要にしての前後です。)

 すなわち、わたしたちは、考えるを見てとるにおいて、前にも後ろにも考えるという元手をもって、つまり、他から強いられずに、ことをまかなうことができます。

 

 わたしが、わたしの及ぽす働きなしで与えられる対象を、わたしの考えるへと紡ぎ込むにおいては、わたしが、わたしの見るを超えて、その外へと踏み出す。そして、そのことの要となるのは、このことだろう。なにが、わたしに、そうすることのふさわしさを与えるのか。なぜ、わたしは、ひとえに対象がわたしへと働きかけるままには任せないのか。どんなふうにして、わたしの考えるが対象との重なりをもつことは、ありうるのか。それらは、みずからの考えのプロセスを追って考える、どの人も、きっと立てよう問いである。人が、考えることそのことを追って考えるにおいては、それらが抜け落ちる。わたしたちは、考えるへと、考えるにとってよそよそしいことを継ぎ足しはしない。よって、また、そうした継ぎ足しについて申し開きをするにも及ばない。

 

 はたして、わたしたちがものごとについて考えるのは、いいことでしょうか、いけないことでしょうか。見ることだけをしていれば、わざわざ考えなくてもよさそうなものですが、なぜ、考えるのでしょうか。そもそも、見ることは見ることであり、考えることは考えることであるのに、見られるところが、なおかつ考えられもするというのは、いかなることでしょうか。それらのことが、きっと、だれしもに考えられるはずです。そして、考えてみれば、それらのことが、きっと、問いとなります。「言われてみれば、それもそうだな」というように、きっと、思うことになるはずです。いかがでしょうか。そして、なんと答えるでしょうか。答えはともかく、それらのことが問として立つのは、ほかでもなく、みずからの考えのプロセスを追って考えるからです。しかし、考えのプロセスでなく、かんがえることそのことを追って考えるにおいてはそれらのことが抜け落ちます。ここまで、わたしたちは、考えるを見てとってきましたが、まさにそのあいだ、それらのことを問いとして立てていた人が、どなたかおいででしょうか。そもそも、考えるを見てとりつつの人にとっては、なぜ考えるのですかといった問いは、じゃまです。まさに考えるを見てとりつつの人にそう問うたとしても、その人からは、せいぜいのところ、「ちよっと待ってください。いまそれどころじゃないんです。それは後で考えさせてもらいます」といような答えが返ってくるぐらいでしょう。(なお、「紡ぎ込む」に当たるのはeinspinnenであり、ein 〈入れて〉spinnen 〈紡ぐ〉というつくりです。それは、すなわち、さきの「継ぎ足す」とともに、考えのプロセスのことです。)

 ここまでの二つの段が、主として場における後先であるなら、ここからの二つは、主として時における後先です。

 

 シェリングは言う。自然を知るは、すなわち、自然を生みなすである。−この、大胆な自然哲学者のことばを、ことばとおりに取る者なら、おそらく、その後ずっと、自然を知ることを、すっかり罷めなければなるまい。そもそも、自然は、ひとたびそこにある。そして、人が、それをふたたび生みなすには、それがそうある原理を知らなければならない。人が、いよいよ生みなそうとする自然に向けて、そのあるの、すでにありあわせている法則を、見ならわなければなるまい。その、生みなすに先立たなければならない、見ならうは、しかし、自然を知るである。よしんば、また、うまく見ならって後、生みなすが、につちもさっちも行かなくなるとしてもである。

 自然のもとではありえないこと、知るまえに生みなすを、考えるのもとで、わたしたちはやってのける。もし、考えるをそれと知るまで控えるとしたら、考えるには至るまい。わたしたちは、きっと、きっぱり、向かって、考えるからこそ、後から、まさにわたしたちのなしたことを見るにより、考えるを知るに至る。考えるを見るについては、まさにわたしたちが、まずもって、ひとつの客を生みなす。他の客という客があることは、わたしたちの及ぽす働きなしに、工面されている。

 

 先には「時の上で、見るは、考えるに先立ちさえする」とありました(七の段)。それは、すなわち、つねづねの見るにおいてこそ、ありうることです。考えるを見てとる(すなわち知る) においては、きっと、考えるを生みなすが先立ちます。そして、そもそも、考える見るには、考えるが先立ちます。加えて、わたしたちは、考えるを見ようと欲しようと、欲すまいと、幼いみぎりのとあるところから、ますますもって、考えるようになりきたっているものです。(なお「工面されてある」に当たるのはbesorgt sein であり、besorgt 〈配慮されて、もしくは世話をされ、もしくは気づかわれて〉sein 〈ある〉の意で、いわば、原理ないし法則をもってなりたっていること、さらには、なりたたされていることを言いましょう。)

 そして、次の段が、こう続きます。

 

 ややもすると、わたしの文、わたしたちは、きっと、考えるからこそ、考えるを見てとることができる、に対して、他の文を同じくふさわしい文として立てる人があるかもしれない。すなわち、わたしたちは、また、消化するをも控えてはいられないからこそ、消化のプロセスを見るに至った。それは、ひとつの言い返しとして、パスカルがデカルトに言ったことと等しかろう。かれは、こうも言えると言い立てた。すなわち、わたしが散歩する、よって、わたしがある。まったく確かに、わたしは、きっと、きっぱり、消化するからこそ、消化の生理プロセスを学ぶに至った。しかし、もしもだが、そのことが、考えるを見てとることと等しいと言えるのは、わたしたちが、消化を、後から考えつつ見てとろうとするでなく、食べて、消化しようとしてこそだろう。これも、また、基なしのことにあらずだが、消化するは、消化するの対象にならないものの、考えるは、すこぶるよく、考えるの対象になりうる。

 

 はたして、いうところの基は、なにを指すでしょうか。きっと、下の基、すなわち、わたしたちのなりたちを指しましょう。さきのふたつの段においては、ものごとの巧みななりたちが引き立てられていましたが、この段においては、わたしたちのなりたちが引き立てられています。すなわち、わたしたちの、知、情、意、ないしは、精神、こころ、からだという、三重のなりたちも、さらには、その三重のひとつひとつのなりたち、ないし働きも、きっと、考えるに適ったところであり、また、考えるに適いうるところです。言い換えれば、すこぶるよく、考えのプロセスが繰り出されるところであり、また、すこぶるよく、考えが、継ぎ足され、紡ぎ込まれるところでもあります。たとえば、おもう(思、想、・惟、念、憶) の働きも、情の波うちも、意欲のたぎりも、さらには、消化、吸収、代謝などの働き、ないし器官までが、考えるに適ったところであり、また、考えるに適いうるところであること、たとえば、考えに、あまい考え、しぶい考え、こなれた考え、こなれていない考え、わたしの養いにしやすい考え、わたしの養いにしにくい考えなどがあるごとくです。

 こうして、ここに、「自由の哲学J は、わたしが、考えるを、こころへ、からだへ、そしてものごとへと、確かに、いきいきと、明らかに導く、見ると語るの道でもありえます。そして、その道の向かうところは、自律と、自立と、見識であり、まさにものごとというものごと、まさに世そのものであります。

 さて、この回のお終いには、八木重吉の詩から、二つほど引きます。

 

森へはいりこむと

いまさらながら

ものというものが

みいんな

そらをさし

そらをさしているのにおどろいた

 

すべて

もののすえはいい、

竹にしろ

けやきにしろ

そのすえが空にきえるあたり

ひどくしずかだ