その、考えるプロセスに重なる、見通しのきく明らかさは、考えるの生理基盤についての、わたしたちの知識に、まったく左右されない。わたしが、ここに話しているのは、考えるについて、わたしたちのする精神の働きを見るから出てくる限りにおいてである。わたしが考えを操るあいだ、わたしの脳のひとつの物質過程が、もうひとつに、いかに弾みを与えるか、もしくは、いかに影響するかは、そのさい、いささかも見てとられるところには入らない。わたしが考えるについて見るところは、わたしの脳のどんな過程が稲妻という〈考え〉を神鳴りという〈考え〉に結ぶかではなく、なにが弾みになって、わたしが、そのふたつの〈考え〉を、ひとつの定かなありようへともたらしたかである。わたしが見るところから出てくるのは、このことである。わたしの考えの結びつきに向けて、わたしがわたしを立てるよりどころは、わたしの考えの内容のほかにない。わたしの脳の物質過程によってではないのである、わたしがわたしを立てるのは。わたしたちの時代よりも物質主義が甚だしくない時代に向けてなら、こういうことを言うのは、もちろん、すっかり余計であろう。いまは、しかし、物質がなんであるかを、わたしたちが知れば、物質がいかに考えるかも知られるというように信じる人たちがいる。よって、きっと、言わなければなるまい。人は考えるについて語ることができる。しかも、すぐさま脳生理学とかちあうには及ばずにである。いまや、すこぶる多くの人にとって、考えるという〈考え〉を、その紛れのなさにおいてつかむことは、難しかろう。わたしが、ここに、考えるについて繰り出した想いに対し、すぐさま、カバニスの文、「脳が考えを分泌すること、肝臓が胆汁を、唾液腺が唾液を等々と同じである」をもちだす者は、なんのことはない、わたしがなにについて語っているかを、知ってはいないだけである。その者は、考えるを、ただの見るプロセスを通して見いだそうとしている。つまり、わたしたちが、ほかの対象としての世の内容を巡ってするのと同じようにである。しかし、考えるは、その道では見いだされない。なにしろ、考えるは、さきに追って示したとおり、まさにそのノーマルな見るを免れるからである。物質主義を凌ぐことができない者には、みずからに、いうところの例外の立ちようを引き寄せる力が欠ける。すなわち、ほかの精神のする働きという働きにともないつつ意識されないままであるところを、意識へともたらす立ちようである。みずからをその立場に置こうという、よき意欲をもたない者とは、考えるについて語ることが、ほとんどできないこと、色の見えない者と色について語るに同じである。ただ、その意欲をもたない者も、わたしたちが生理のプロセスをもって考えると見なしているとは信じてほしくない。その者が考えるを説き明かせないのは、その者が、考えるを、そもそも見ないからである。
わたしの見るかぎり、考えるプロセスに重なる明らかさは、たとえば脳について、わたしが知っていることに左右されません。もちろん、脳をゲノムと置き換えて読んでも、ことは同じです。
また、わたしの見るかぎり、考えと考えの結びつきは、たとえは物質としての脳のプロセスからでなく、ただに考えの内容から明らかになります。
さらにまた、わたしの見るかぎり、そのことは、わたしが、考えを操りつつ、考えと考えを結ぶにおいても、変わりありません。すなわち、わたしが、考えと考えを結ぶのは、ただに考えの内容が弾みとなってであり、ただにその明らかさを支えにしてです。(「考えを操る」に当たるのはeine Gedankenoperation ausfilhren であり、eine〈ひとつの〉Gedankenoperation 〈考えの操作ないし手術を〉ausfilhren〈執り行う〉という言い回しです。おそらく脳生理学との縁で使われていましょう。訳は、考えの筋道にちなんで「操る」としました。いわば、考えを、とらえ、つかみ、とりつつ、いじりまわすことです。また、「弾みを与える」に当たるのはveranlassenであり、いわばver〈さっと〉an〈触れて〉lassen〈任せる〉というつくりであり、「しかじかにしかじかのする働きを促す」といった意です。なお、そのことばは先の「する働きをさせる beschaftigen」と対し合わされていましょう。)
そのとおり、わたしたちは、考えるを見るにおいて、考えるという〈考え〉を、その紛れなさにおいてつかむことができます。すなわち、脳を見るでなく、脳についての知識に縛られず、さらには憶うこと、信じることにもとらわれず、ただに考えの明らかさに向けて、わたしたちが、わたしたちを立てつつ生きることができます。
そして、わたしたちは、その立ちよう、生きようを、わたしたちみずからへと引き寄せることもできます。すなわち、思うこと、信じることへ、脳についての知識へ、さらには脳へと、まさにわたしたちの明らかな意識を重ねることができます。
そして、そのことができる、できないは、わたしたちの意欲に懸かります。そもそも、そのことは、なにかに促されてすることではなく、ひとえにわたしたちのする精神の働きによることであり、まさにわたしたちがしようとしてすることです。(「よき意欲」の「よき」は「すこぶるよきかな」の「よき」です。)
そして、「自由の哲学」を読むことは、きっと、その意欲、その欲するを、いきいきと起こすことに通じています。
さて、この回のお終いには、宮沢賢治「春と修羅」から「林と思想」と題する詩を引きます。
そらねごらん
むかふに霧にぬれてゐる
蕈(きのこ)のかたちのちひさな林があるだらう
あすこのとこへ`
わたしのかんがへが
ずゐぶんはやく流れて行って
みんな
溶け込んでゐるのだよ
こゝいらはふきの花でいつぱいだ