わたしが例外の立ちようを入り来させ、わたしの考えるを追って考えるにおいてさえ、ことは同じである。わたしは、わたしのまさにしている考えるを、見ることができない。ただ、わたしは、わたしの考えるプロセスとの重なりにおいてしていた経験を、後から考えるの客にすることができるのみである。もし、わたしが、わたしのまさにしている考えるを見ようとしたら、きっと、わたしを、ふたつの人となりに引き裂かなければなるまい。すなわち、考える人となりと、その考えるのさなかにおいてみずからを見やる人となりとである。それは、わたしには、できない。わたしは、それを、ただ、ふたつの別々のアクテイビティとしてすることができるのみである。見られる考えるは、まさにその時にしているそれでなくて、別のそれである。わたしが、考えるを見るために、わたしが先にしていた考えるに重ねて見ることをするか、あるいは、ほかの人の考えのプロセスを追おうか、あるいはまた、前の玉突きの玉の動きの例でのように、仮りの考えのプロセスを先に据えるかは、ことの要ではない。
わたしたちが例外の立ちようを入り来させ、言い換えれば、わたしたちが上をよりどころとする立ちようをみずからへと降り来たらせ、考えるを追って考えるにおいてさえ、言い換えれば、考えるに重ねて見つつ考えるにおいてさえ、ことは同じである。すなわち、わたしたちが見てとるのは、考えていたことに他なりません。(「入り来させる」に当たるのはeintreten lassen であり、treteo〈踏み〉ein〈入るに〉lassen〈任せる〉という言い回しです。すなわち、「踏み入る」は、「立つ」との縁であり、みずからの身における考える(もしくは向かう)のアクテイビティの高まりを指し、「任せる」は、いわば「被るleiden 」との縁で、みずからの身における見る(もしくは迎える)のアクテイビティの高まりを指します。なお、lassen は、英語のlet に当たります。)
わたしたちは、わたしたちのまさにしている考えるを、見ることができません。言い換えるなら、わたしたちは、考えるを、後から振り返って見てとるのみです。
ただ、わたしは、考えるプロセスとの重なりにおいてした経験を、後から考えるの客にすることができるのみです。言い換えると、わたしは、考えを見て、その考えが先立っての考えるの残した考えであることを見てとるきりです。
もし、わたしの身が、ふたつあるのなら、話は別ですが、わたしが見て知るかぎり、わたしの身は、わたしなりにひとつあるきりです。なるほど、わたしは、いろいろなものごとを見つつ考えます。もしくは、いろいろなものごとを見つつ考えるの客とします。しかし、まさにひとつの身をもって、まさにいちいちそのつど、ひとつのものをであり、ひとつのことをです。もし、みずからひとつの客について考えながら、考えているみずからを客にしようとしたら、もうひとつのみずからを要します。なるほど、身がいくつあっても足りないというときもあるにはありますが、はたして身がいくつもあった日には、かえって始末におえなくなるかもしれません。なにしろ、このひとつの身でさえもてあますときがあるくらいですから。もしもということで、話が脇道に逸れました。元に戻します。そもそも、わたしたちの例外の立ちよう、
すなわち、わたしたちの考えるを見る立ちようは、わたしたちがみずからを引き裂く立ちようではなく、わたしたちがみずからへと入り来させる立ちようです。
加えて、考えは、みずからの考えも、ほかの人の考えも、さらには仮りの考えも、同じく見るの客となります。なぜでしょうか。まさに見つつ考えてみてください。(やがて五の章において、そのことの基が述べられます。)
そして、さきの二つの段が、こうまとめられます。
ふたつは相容れない。しつつ生みだすと、観つつ対して立てるとである。そのことを、すでにモーゼの一の書は知っている。そこでは、はじめの六日において神が世を生みだす。そして、世がまずあって、世を観る可能性がありあわせる。「そして、神は視た、神がつくったすべてを。そして、視よ、そは、すこぶるよきかな。」わたしたちの考えるも、またそのとおりである。考えるが、きっと、はじめにあってこそ、わたしたちが考えるを見ようとする。
考えるは、まさにわたしたちがする精神の働きであり、かつまた、わたしたちが客へと生みだすところであり、見るは、わたしたちのする精神の働きであっても、なおかつ、客からさせられてする働きです。その二つ、考えると見るは、まさに「わたしたちの精神の、二つながらの基の柱」です。すなわち、わたしたちの精神の生きるが、見ると考えるを基に起こり、わたしたちの身が、下と上の基に立つものの、はじめに見るがあるかぎり、つまり、させられてする働きが先立つかぎり、考えるも、上の基も、密かなままです。そして、ただひとつ、わたしたちの例外の立ちようにおいて、つまりは、わたしたちが考えるを見ようとするにおいて、はじめに考えるがあります。( 「観つつ」にあたるのはbeschaulichであり、schauen 〈広やかに見る〉から来て、「じっくりと見やるさま」「静観するさま」といった解があります。かたや、
わたしたちは、しつつ生みだすをもって、振る舞います。そして、いわば振る舞いの最たるものが、舞です。まさに舞を舞い手が、舞のきわみにおいて、「もう考えることてあらへんえ」といっているとおり、わたしたちの振る舞いは、かぎりなく考えるに重なりえます。いわば、どこまでも安らかな振る舞いとなりえます。もちろん「あきるほど稽古してみ」た果てにですけれども。なお、そのことが、八の章から述べられています。)
そして、次の段、この回の六つ目の段は、こうです。
わたしたちにとって、おりおりの、まさに繰り出しつつの考えるを見ることができないことの基は、わたしたちにとって、考えるが、ほかのいちいちの世のプロセスよりも、じかに、親しく知られることの基と同じである。まさにわたしたちが、考えるを、生みだすゆえに、わたしたちは、考えるのなりゆきのことさらなところ、そこに見てとられるところとなることのいかになされるかを知る。ほかの見るの時空において、ただ間接に見いだされるところ、すなわち、ことがらとしての相応のかかわりと、いちいちの対象のありようとを、わたしたちは、考えるにおいて、まったく直接に知っている。わたしたちの見るにとって、なぜ、稲妻に神鳴りが続くのかを、わたしは、すんなりと知っているわけではないが、わたしの考えるが、なぜ、神鳴りという〈考え〉を稲妻という〈考え〉に結ぶのかを、わたしは、そのふたつの〈考え〉の内容からじかに知っている。もちろん、わたしが、神鳴りと稲妻についての正しい〈考え〉をもっているかどうかは、ことの要ではない。わたしがもつ、それらのかかわりは、わたしに明らかであり、しかも、それらそのものから明らかである。
稲妻というのは、読んで字のごとく稲の妻であり、いうところ妻は夫のほうを指します。すなわち、天からひらめく光が、父、ないし父のもの、地から生えでた稲が、母、ないし母のものであり、そのあいだで結ぶ実、お米が、子、ないし子のものです。すなわち、かつての人が、そのように考えたところから、稲妻ということばを、生みだしました。
また、神鳴りというのも、読んで字のごとくです。すなわち、それは、知ってのとおり、雲の上にいて、虎の皮の禅をしめ、太鼓を打ち鳴らして、臍をとるという神さまの仕業です。すなわち、そう考えるのも、それなりひとつの、考えるのなりゆきです。
さらにまた、知ってのとおり、光にも速さがあり、音にも速さがあり、光は音よりも速く、それゆえに、光のほうが先に人の耳へと届きます。すなわち、そう考えるのも、それなりひとつの、考えるのなりゆきです。
そして、いずれの、考えるのなりゆきにおいても、なりゆきの節々のかかわりは、そのなりゆきを辿るわたしに明らかであり、しかも、それそのものから明らかです。まさに考えるのなりゆきというなりゆきは、「視よ、そは、すこぶるよきかな」です。そして、そのことの基は、「まさにわたしたちが、考えるを生みだす」ゆえにです。すなわち、わたしたちが考えるにおいてじかに知るところ、もしくは、わたしたちが考えるを見るにおいてまさに見るところですが、わたしたちは、考えるを生みだすにおいて、考えるの明らかさ、もしくは光を生みだし、考えるのなりゆき、もしくは考えるの筋道を生みだし、ことがらとしての相応のかかわりと、いちいちの対象のありようを生みだします。(「ことがらとしての相応のかかわり」に当たるのはder sachlich-entsprechende Zusammenhang であり、いわば「ことのがら」であり、「いちいちの対象のありよう」に当たるのはdas Verhaltnis der einzelnen Gegenstande であり、いわば「ものごとの相ないし仔まい」です。なお、「ことのがら」は「思い」に通じますし、「ものごとの相」は「想い」に通じますし、「ものごとの仔まい」は「わたしたちの居ずまい」と対です。それについては、六の章において詳しく述べられます。)
そして、「よくない」のは、たとえば、さきのふたつの、考えるのなりゆきを、理科ないし物理の時間に持ち込むことであり、あとのひとつを、社会ないし歴史の時間に引き込むことです。たとえばまた、その「よくない」を、考えるのなりゆきそのものの「よくない」と取り違えることです。
さらに、次の段がこう続きます。