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略伝自由の哲学第三章c−1

 これは考えるの独自な自然であるが、考えつつの者は、考えつつのあいだ、考えるを忘れる。その者にする働きをさせるのは、考えるでなく、考えるの対象であり、その者の見るところである。すなわち、わたしたちが考えるに重ねてする見ることの、はじめのひとつであるが、考えるは、わたしたちのつねづねにおける精神の生きるの、見られない元手である。

 

 この回は三の章の十一および十二の段からです。その二つの段をもって、先の回に取り上げたことが、ひっくるめて述べられていましょう。見る、欲する、感じる、憶う、考えるなど、わたしたちのする精神の働きのうち、ただひとつ、考えるは、まさにわたしたちがその働きをしているあいだ、その働きに気づいていません。わたしたちが気づいているのは、その働きの対象であり、また対象によってさせられてしている働きです。(「忘れるvergessen」は「識る」の対です。すなわち、「識る」が、なにかに気づいていること、なにかによってこころが起こっていることであるのに対して、「忘れる」は、なにかを心から亡くすことであり、なにかについての心を亡くすことです。「忘」の字がどういう心からつくらたかは知りませんが、字の形はどちらの面を指すにも適いましょう。)

 言い換えれば、考えるの他の、わたしたちのする働きという働きは、つまるところ、わたしたちが、わたしたちの他のなにかによってさせられてする働きです。(「する働きをさせる」に当たるのはbeschaftigen であり、schaffen 〈為す、成す〉から来て、「内的に勤しませる」「仕事を与える」といった解があります。なお、「させる」がきつすぎるようでしたら、「促す」と読み換えてください。)

 そして、そのことをわたしたちが知るのも、まさに見るを通してです。すなわち、まさに見るところ、わたしたちは、日々に、見つつ、欲しつつ、感じつつ、憶いつつ、いきいきと精神のする働きを繰り広げますが、そのいずれにも、考えるが、いわば密かに伴っています。なるほど、日々つねづねの見るからすれば、へんな言い方ですが、しかし、そのことを、まさにアクテイブに、例外の見るをもって見てとると、とらないとでは、大きく異なること、ただの無知と無知の知が大きく異なるに同じです。(「元手」に当たるのはElementであり、ここでは、見る、欲する、感じる、憶う、考えるなどなどを指しましょう。すなわち、わたしたち人が生きるのは、それら精神のする働きをもとにしつつです。)

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 ついでに、こんな親子の対話があります。京舞の井上八千代という方と、次男で能楽師の片山慶次郎という方のです。右に述べることとのかかわりにおいて、気づくことが多々あると思いますので、どうぞ読んでみてください。

 

「お母さんは舞を舞うてる時、何考えてる?」

「阿呆かいな、舞を舞うててものを考えますかいな」

「いや、そやないね。舞うてる最中に、ここはもうちよっとつっ込んでやろうとか、あっ、しもた、もうちよっと間をためるにゃったとか、ここは殊更気を入れんならんところやとか、この舞台は舞いにくいとか、あのお客めざわりやなとか・・・いろいろあるやろがな」

「そんなことちょっとも思わへん」

「ほんまになんにも考えへんの」

「はあ」

「全然?」

「そうや」(中略)

「ほな、どうしてそんなに無心になれるね?」

「そないにいわれても困るけど・・・わてかて、そんなもんむつかしい考えてしてるのと違うえ。今舞うてるやろ。そしたらそれだけや。舞うことだけに精出したらええにやがな。なんでもあらへんがな」

「(中略)どないしたらなにも考えんと舞えるにゃろなあ」

「そらもっと稽古するしかしょうがないな。稽古して稽古して、あきるほど稽古しておみ、もう考えることてあらへんえ」

(「井上八千代芸話」、渡辺保「日本の舞踊」〈岩波新書〉からまご引きしています。)

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 さて、「自由の哲学」を読むことも、まさしく稽古です。まずは、なによりもアクテイビティ、すなわち、する働きを要します。むつかしく考えるには及びません。ことがらは、すべて見てとられることがらです。七面倒な理屈や定義、専門知識や専門用語などには、なんらかかずらわるまでもありません。訳のいたらなさを棚に上げて言いますが、どの章も、どの段も、どの文も、まさに読もうとすれば、ひととおり読めます。ただ、うまく読めていないときが、たびたびあります。読んだあと、なにかに引っ掛かっていることで、そのことが知られます。そこでまた読みます。そこで要するのも、また、なによりもアクテイビティ、すなわち、する働きです。そして、繰り返し読みながら、これだ、このことだと、ことを得ることもたびかさねてあります。そこからまた、ありあわせのことばを、ささやかながら鍛えなおすにも至ります。そのようにして捗る読みが、稽古の道すじでなくしてなんでしょうか。言ってみるなら、考えると見るの稽古です。さらに言うなら、その稽古は、ありとあらゆる稽古に通じていますし、その目指すところは、生きることをより自在に意識するようになることです。( なお、初版の前書きには、そのことが、今の時代とのかかわりにおいて詳しく述べられています。)

 そして、稽古には、それなりの段取りないし方法があります。すなわち、十三の段が、こう続きます。

 

 なぜ、わたしたちは日々の精神の生における考えるを見ないのか、その基は、ほかでもない、その考えるが、わたしたちみずからのする働きの上に安らうからである。わたしが生みださないところは、対し合うものとして、わたしの見るの分野に入り来る。わたしは、わたしが、それ、すなわち、わたしをさしおいて立ち現れたものと対し合うのを視る。それは、わたしへと、迫り来る。わたしは、それを、きっと、わたしの考えるプロセスに先立って要するところとして迎え入れる。わたしが対象を追って考えるあいだは、わたしが対象をもってする働きをさせられてあり、わたしのまなざしが対象に向けられている。そのさせられてする働きが、考えつつ見てとるである。わたしのする働きにでなく、する働きの客のほうに、わたしの見る目が注がれている。言い換えれば、わたしは、考えるあいだ、わたしの生みだす考えるをでなく、わたしの生みださない、考えるの客を視ている。

 

 まず、はじめの文から取り上げます。いうところの基は、ここまでにいう基(わけても一の章を見てください)と異なります。いうところの基は、いわば上の基であり、ここまでにいう基は、下の基です。すなわち、わたしたちの考える立ちようは、みずからの身の上をよりどころにしています。そして、わたしたちが考えつつ気づくのは、みずからの身であり、わたしたちの他のなにかによってさせられてしている働きであり、そのなにかに向かう立ちようです。(「みずからの」に当たるのはeigen であり、「・・・に属する」「・・・が有する」の意です。ここでは「人に属する」「人が有する」の意であり、さらに「人がみずからのものにしている」「人が身につけた」の意です。そもそも、人が、精神のことを「有する」には、「身につける」が先立ちます。)

 さらにまた、いうところの基は、問うと答えるのよりどころであり、ここまでにいう基は、からだ、およびからだのよりどころです。そもそもにおいて、問いが立つのも、答えが来るのも、考えるからです。そして、考えるは、わたしたちの日々の精神の生において、見られないところとしてあります。なぜでしょうか。まさにその問いは、考えるから立たなくて、どこから立つでしょうか。はたまたそれへの答えも、まさしく明らかに、考えるから来ます。すなわち、それへの答えは、こうです。考えるは、わたしたちみずからのする働きの上にあります。言い換えれば、考えるは、わたしたちが、わたしたちの他によってさせられてする働きの上にあります。さらに言い換えれば、考えるは、わたしたちの向かう立ちようの上にあって、その立ちようを支えています。(「・・・の上に安らう」に当たるのは auf...beruhenであり、beruhen はruhen 〈憩う、安らう〉から来ます。さきの回においては、それを「・・・の上に憩う」というように、少しばかりネガテイプに訳しました。すなわち、わたしたちの身における精神のアクテイビテイの不足を言うためでした。しかし、ここでは「安らう」というように、ポジティブに訳します。すなわち、考えるが、わたしたちの精神のアクテイビティとして、密かながらも、わたしたちを支え、わたしたちの身へとおよび、わたしたちの身に落ち着きを醸していることを言うためです。もちろん、「憩う」にしても、「落ち着き」のうちですが・・・。なお、また「落ち着き」は、二の章にいう「上澄み」の「澄み」に通じましょう。)

 そして、二つ目の文です。考えるは、わたしたちみずからのする働きの上に安らうのみではありません。わたしたちは、考えるを、向こうへと生みだしもします。言い換えれば、わたしたちは、なにかについて考えるにおいて、考えるを、そのなにかの上へともたらしもします。かたや、わたしたちが生みださないところ、すなわち、いうところのなにかが、わたしたちの見るを通して、わたしたちへと入り来ます。(「生みだす」に当たるのはhervorbringen であり、hervor 〈前へ〉とbringen 〈もたらす〉というつくりであり、「持ち出す」「産出する」の意があります。二の章にいう「わたしたちが、ものごとにおいて求める上澄み」というのが、まさにわたしたちの持ち出すところです。)

 次に、三つ目の文です。わたしたちは、つねづね、なにかを見つつ考えます。みずからに引きつけて言えば、なにかを迎えつつ、そのなにかに向かいます。すなわち、わたしたちは、日々に生きつつ、あっちのなにかとこつちのみずからを、ともに視るものです。なにかとみずからの対し合いを意識するものです。( 「視る」に当たるのはsehenであり、「目で見る」ことであり、そこからまた「見て分かる」といった意があります。ちなみに、目で見るにおいては、耳で聴く、舌で味わうなどにおけるよりも、「対し合い」がきわだつものです。)

 さらに、わたしたちは、その対し合いの意識を、さまざまなほどにおいてもつものです。言い換えるなら、わたしたちは、迎えつつ向かう、ないし見つつ考えるのほどを、低めもずれば、高めもするものです。そのことが、四つ目の文から述べられています。すなわち、あっちのなにかが、立ち現れ、迫り来て、こっちのみずからが、まなざしを向け、迎え入れます。言い換えれば、あっちが、こっちに、する働きをさせ、こっちが、あっちを追って考え、見てとります。わたしたちは、客を迎えつつ客に向かい、客を見つつ客に重ねて考えます。そして、後、見る目を客に注ぐかわりに、客の上へと注いでこそ、なにを考えていたかを知ります。言い換えれば、立場を違え、下をよりどころにする立ちようのかわりに、上をよりどころにする立ちようにおいて、考えていたことを見てとります。( 「見る目を注ぐ」に当たるのはAufmerksamkeit richten であり、Aufrnerksamkeit〈注意を〉richten〈向ける〉という言い回しです。また「・・・に重ねて考える」に当たるのはuber...denkenであり、「 ...について考える」の意ですが、Uber〈上〉を生かして「重ねて」としました。)そして、次の段が、こう続きます。