さて、その、どうにかこうにかの居場所に立ち、とにもかくにも胸のときめきを聞くところから(わたしは、あらためて目まいがしていますが)、こう、次の段がはじまっています。
その情が、対し合いに橋を渡そうとの勤しみを産みだす。そして、その対し合いに橋を渡すこととして、つまるところ、人という人の精神の勤しむことのまるごとがある。精神の生きることの歴史は、わたしたちと世のあいだの一重であることの、弛(たゆ)まなき探し求めである。宗教、芸術、科学が、同じほどに、その目標を追う。宗教をもつ者が、その者に神が与らせた啓示において、世の謎の解き明かしを探し求める。その謎を、その者の、ただの現象の世をもっては満ち足りない〈わたし〉が、その者へとさしだすからだ。芸術をする者が、素材に、その者の〈わたし〉の理念を込めようとする。その者の内に生きるところを、外の世と折り合わせるべくである。その者もまた、ただの現象の世によっては満たされないことを感じ、その世に、さらなるところを、すなわち、その者の〈わたし〉がその世の外へと赴きつつ抱くところを、かたどろうとする。考える者が、現象の法則を探しため求める。その者が、見つつ験すところに、考えつつ通おうとする。わたしたちは、世の内容を、わたしたちの考えの内容に仕上げて、かかわりをふたたび見いだす。さきに、そのかかわりから、みずからを解き放っているからだ。
なんとも、大いなることが、あたかもさらりと述べられています。いかがでしょうか。人が、互いに別れる二つの向きのあいだに立つにおいて、対し合う世とその人の〈わたし〉を、なんとか折り合わせようとすることがはじまります。それは、人のする働きです。逆に言うと、人が、する働きをもって、いよいよ人です。そのする働きを、「勤しむ」ということばが、ひとことで指します。そのことばは、いわば、動詞がものをいう「自由の哲学」において、動詞中の動詞です。そして、そのことばを、そのように使ったのも、ゲーテでした。勤しむ、すなわち、人のする働きという働きは、人が考えつつ感じるところから出てきます。(「勤しむ」に当たるのはstrebenであり、「はげむ」「つとめる」の意です。なお、励、蜀などが 「はげむ」、力、仇、努、孜、勉、務、勤、邁などが、「つとめる」と訓じられてきました。)
そして、いかがでしょうか。文化は、その「勤しむ」が産みだすところです。文化史は、「精神の生きることの歴史」として顧みられます。その「勤しむ」という観点に立つにおいては、宗教も、芸術も、知識ないし科学も、互いに手をつなぎ合います。さらに、「宗教をもつ者」「芸術をする者」「考える者」というのは、人の三重のなりたちに応じています。すなわち、〈わたし〉は、精神としてひとり立ちでありつつ、知、情、意において生きるものであり、ひとりひとり誰もが、人であるにおいては、多かれ少なかれ宗教をもつ者であり、芸術をする者であり、考える者であります。さらに、農業、漁業、工業、商業等々も、いうところの文化のうち、ことに真ん中の芸術のうちです。つまりは、それらの仕切りも、人が立てます。あらかじめ決めてかかると、述べられていることが分からなくなります。(その意味をこめて、Der Religios-Glaubige, Der Kiinstler, Der Denkerを、「宗教をもつ者」「芸術をする者」「考える者」というように訳してみました。少し聞きなれない言い方かもしれませんが。ちなみに、「自由の哲学」の書き手の見るところ、哲学も、まこと哲学であるにおいては、芸術です〈初版の序〉。それについては、後に詳しくふれる折りがあるはずです。)
ここまでを、いまひとたび振り返ります。わたしたちは、問い、学び、知るということを促す基へと降りながら、迎える、向かうという、おのずからな向きを知り、さらに、向かう向きにおける世とわたしの対し合いを、ことに朝の目覚めの時、ひいては想い初め時を顧みて知り、さらに、迎える向きにおける世とわたしの絆があるという感じを、向かう向きと迎える向きのあいだに立って得ました。そして、そのとおり、人が、その人を見て知る道すじが、そのまま人という人の勤しみを迎えつつ向かって知り、ひいては文化という文化の歩みを顧みて知る道すじへと連なります。先の、いわば小さな道の明らかさと確かさが、そのまま後の、いわば大いなる道の明らかさと確かさへと連なりえます。そのあいだに、そもそも越えられないような溝はありません。といっても、溝が越えられるかどうかが、まさに人が勤しむかどうかに懸かります。しかし、まさに人が勤しむかぎりは、人と世のあいだに、いつかは橋が渡されるという望みが兆しますし、逆にまた、その望みが兆せばこそ、人が勤しみます。
いかがでしょうか。だれしも、生きているかぎりは、きっと、なにごとかに勤しんでいます。その勤しむかぎりにおいて問うてみてください。なにがしかの溝に、なんらかの橋が渡せるという望みが、たとえ遥にであっても、きっと、兆しているはずです。