そして、三つ目の段は、こうです。
その、わたしたちと世のあいだの仕切りは、わたしたちが立てる。すなわち、意識がわたしたちの内に明るむやいなやである。なおかつ、わたしたちは、こういう情を失ってはいまい。すなわち、わたしたちが世のかたわれであり、わたしたちと世に絆があり、わたしたちがまるまるひとつの外ならぬ内なる者であるとの情だ。
「わがもの顔」とか 「大きな顔」というのがあります。「傍若無人」とかともいいます。(古くても、まだ使えることばだと思いますが)、いわば、な
んらかのけじめが欠けていることを言っていましょう。いうところの「仕切り」は、目に見えません。目に見えるところに重ねて立てられます。立てるのは、人です。たとえば、屏風や衝立(ついたて)が仕切りの役割をするのも、あるいは、したのも、そこからです。また、いわゆる輪郭線としてなぞられる線も、それです。そのような線も、目に見える限りにはありません。つまり、「仕切り」は、ものごとの際立ちであり、ものごとがものごととして際立つかどうかは、わたしたちが、向かう向きをもって、与えられたところに向かうかどうかに
懸かります。そして、向かう向きにおいて気づかれるのが、「考える」働きです。(「立てる」に当たるのはerrichtenであり、richten〈向ける〉から来て、「起こす」「建てる」「直(なお)くする」の意です。はやりの 「立ち上げる」も、それに近いかと思います。)
そして、「わたしたちの内」は、わたしたちのこころであり、さらにはからだです。こころとからだへと、意識とともに〈わたし〉が及びます。そのこころが、わたしのこころであり、そのからだが、わたしのからだであり、その意識が、わたしの意識、もしくは自意識です。そのことが、ことに、かの、幼いみぎりの「想い初め」の時において際立ちます。すなわち、その時を想い返すことによって、そのことのそもそものありようがありありと偲ばれます。また、そう偲ぶことが、おりにふれて、そのことを確かに見てとることの助けとなります。そもそも「わたしたちの内」は自意識とともにあるようになります。そして、わたしたちに自意識があることと、わたしたちが考える「働き」をすることとは、同じひとつのことです。試みに、向かう向きを抑えて、「考える」働きをかなたの方にさしおいてみると、さしおくほどに、いわゆる茫然自失、見とれ、見ほうける体に近くなります。
なおかつ、人のこころは、迎えつつ向かうありようです。わたしたちが、胸において、そのふたつの向きをあわせもつにおいて、もしくは、考えつつ情の繰り出しを感じるにおいて、世が、世でありつつ、わたしたちを親しく包みます。「まるまるひとつの内」に、「ひとり立ちの者」が、 どうにかこうにか居場所をもちます。かたじけなくも、まるまるひとつは、そう出来ています。