さて、「選ぶ」に、あらためて意識を向けます。たとえば、ここまで読んできた人なら、これを読むことを選んでいるはずです。そのことを振り返ってみるとして、どうでしょうか。さらには、そのつどしているはずの「選ぶ」を振り返ってみるとして、いかがでしょうか。
よりどりみどり、えりごのみ、わたしたちは、こころの向くまま選んだり、こころの向きを抑えて選んだり、想いどおりに選んだり、なんとはなしに選んだり、深く考えて選んだり、浅はかに選んだり・・・。「選ぶ」は、「求める」「欲する」に比べて、かなり蔽通のきくことです。そして、融通がきくということに、間違うということが根ざします。味の素ではありませんが、間の取り違えの素は、融通性にあります。
「選ぶ」において、「好く」「嫌う」という情の繰り出しが知られます。そして、「好く」から「取る」があり、「嫌う」から「捨てる」があります。その「取る」「捨てる」が、考えにおいてなされもします。ひっつけ、はっつけ、とっかえ、ひっかえ、考えが、好かれて取られ、嫌われて捨てられます。しかも、その「好く」「嫌う」は、ことがらに根ざさず、わが身の好き嫌いに過ぎなかったりします。理屈と膏薬はどこにでもくっつくとかいいますが、いまの人のする分別は、えてしてそうなりがちです。はなはだしきは、「好く」から「捨て」、「嫌う」から「取る」ことすらします。
考えるは考えるでも、そうした分別の働きをもっては、自由どころではありません。しかし、「考える」は、さらに異なる形でもなされます。
考えは情けの父なり
心への道は頭を経る
顧みれば、情が繰り出すのは、考えからです。心がときめくのは、頭を経て道が及べばこそです。その道は、想いとして、考えから続きます。さらに、見初め、馴れ初めの時が顧みられます。それは、いわば想い初めの時でもあります。さらにまた、想い出の始まる時が顧みられます。その想い出は、ことさら輝かしく、ことのほかみずみずしく想い出されるところです。そして、その時から、意識してする働きが始まります。そして、「顧みる」も、意識してする働きです。そして、意識してする働きは、「考える」から発します。(「心」に当たるドイツ語はHerzであり、心臓のことです。こころの働きのうちでも情の働きのきわだつところです。)
心と情けは、振る舞いの基をつくりなさない。心と情けは、振る舞いの基を前もって据えて、取り込む。わたしのこころに憐れみが湧くとして、それは、わたしの意識に、憐みをそそる人についての想いが浮かび来ればこそだ。
振る舞いの基も、想われるところの他ではありません。まさに想い初められて、基が基として据えられます。ときめく心とみずみずしい情(気持ち)により、かつ、明るさのさなかにおいてです。そこから、基が、人として確かに立つことを支え、ことがらにかなって振る舞うことを助けます。どんな質でも捨てたものではありません。想いようでは、臆病な質も繊細な質でありえます。短気な質も大胆な質でありえます。そして、その想いようが、想い初めようから発します。(「前もって据える」に当たるのはvoraus-setzenであり、「想う」と訳してあるvor-stellen〈前に立てる〉と応じ合いましょう。すなわち、前もって据えて、取り込んでいればこそ、後から内において取り立てて、前に立てることができます。)
多くがなに気なく素通りして、えくぽに気づかず、ひとりがえくぼを見そめる。そこからこころに愛がめざめる。そのひとりがしたのは、多くがしない想をしたでなくしてなにか。多くが愛を抱かないのは、想いを欠くからだ。
人がらへの愛、ことがらへの愛も、想い初めの、みずみずしく、輝かしい想いにおいて目覚めます。ひとりがひとりであり、まさにそのひとりからしようとすることも、また、そこからこからはじまります。(「あばたもえくぼ」の警えにからめて「えくぼ」としてありますが、もとのことばは、Vorzugeで、いわば「引き立つところ」です。)
そして、すでに見初められたところが、見直されもします。すでに馴れ初められたところも、あらためて馴れ初められもします。そこでも、それまでになされない想いがなされます。想いがあらたまります。たわわになります。そのような時、いわば、ういういしいこころの時が、これまでにいくたび訪れたことでしょうか。そして、これからもいくたび訪れることでしょうか。そして、その時が、訪れるのみか、招かれもします。まさに「考える」によってです。もしくは、明らかに確かに問うによってです。
そのとおり、「考える」は、かえすがえすも不思議なことです。そして、「精神の自由」、もしくは「精神」も「自由」も「愛」も、きっと、「考える」へと至るにおいて、紛れなく知られるところとなります。わが身も、きっと、そこから取って返すにおいて、なおのこと自由になります。