ここまでを、いまひとたび振り返ります。シュトラウス、スペンサー、スピノザ、ハルトマン、ハマリング、レ、ヘーゲルと、七人の説が引かれることで、選ぶ、求める、欲する、質、考え、想い、知っていることに、光が当たりました。わたしたちは、こころの向き、こころの起こり、こころの素地というように、自然の側を降り、からだへと近づきながら、求める、欲する、質というように、人として確かに立つことの支え、ことがらにかなって振る舞うことを助ける基のかずかずを知り、そして、考え、想い、知っていることというように、意識の明るみの側を降り、精神を宿しながら、つもり、はからい、わけがらというように、振る舞いを導く「わけ」のかずかずを知りました。
そのとおり、『自由の哲学』においては、述べることの形が、そのまま、人のこころの形です。そもそも、考、想、知、選、求、欲、質といったことばは、人のこころの段々であるありようを指して用いられています。人が、意識的に、こころを昇り降りするにつれて、こころの異なる趣が知られます。その趣の段々は、あくまで段々であって、離れ離れにはありません。いわば重なり合い、通い合ってあります。しかし、分かとうとすれば、分かつことができます。まさに昇りつつ降りつつ、こころの働きをまさに働きとしながら、意識を向けることによって、光を当てることによってです。そして、光が当たることは、趣がなりかわることでもあります。たとえば、こころの素地が質へと、たとえば、ただの考えがつもりへと、なりかわります。ちなみに、人は「質」に強いられると説いたハルトマンという人は、みずからを厳しく律した人でもあります。また、人は「つもり」に縛られると説いたハマリングという人は、繰り返し病の床にあって、そこからそのつど想い立っては、創造的な仕事をやってのけています。その想い立ちは、まさしく縛られずに抱かれた「つもり」の他ではなかったはずです。説いていることと、していることとが、ちぐはぐで、変といえば変ですが、こころと精神のこととしては、まさしくまことではないでしょうか。『自由の哲学』の書き手が、かれらの説を引いたのは、かれらの人となりを讃えるつもりからでもあったかと想います。