加えて、ハルトマンの説が引かれ、人の「質(たち)」に光が当たります。人は、それぞれに想いを抱く。それぞれの想いから、それぞれの振る舞いをする。しかし、それぞれの想いは、それぞれの質に強いられている。よって、人の振る舞いは、人それぞれでも、人の自由ではない、というのがハルトマンの説です。「基」が、外のもろもろ、からだにかかわるものごとなら、「質」は、内のもろもろ、こころの素地です。しかし、人は、質をも意識すること、基を意識するのと同じです。そもそも、人が、質を云々するのは、それを意識するところからでなくして、どこからでしょうか。
(「質」に当たるのはCharakter〈特性〉ないしcharakterologische Veranlagung〈特性論において論じられる素性〉であり、性格、素質などのことです。)
*
ここで、はじまりの問いは、こう言い換えられます。
わたしの振る舞いの意識された基と意識されないはずみとのあいだに、それなりの違いがあるからには、意識された基からなされる振る舞いも、やみくものつきあげからの振る舞いと、違って判断されなければなるまい。その違いを問うことが、まずはじめだろう。そして、そこから言えることに、そもそもの自由の問いにどう応じるかということも懸かってこよう。
振る舞いの基を知っているとは、いかなることか。人が、この問いを顧みないできたのは、分かちえない一つ、すなわち人を、二つに引き裂いてきたからだ。人が、振る舞う者と、知る者とを、てんでに扱ってきた。そして、なによりも要である、知ることから振る舞う者が、なおざりにされてきた。
人は、知るによって、確かに立ちます。知らないと立場がないものです。人が振る舞うのも、その立ったところからです。そして、知られたところが、追って考えられます。こうも言えます。意識があるのは、いわばおのずからでも、意識をもつ、意識を向けるのは、いわば人ならではのおのずからです。人が意識をもち、意識を向けることと、人が人であることは、いわば表裏です。そして、それは「考える」からです。なお、どう考え、どう意識を向けるかが、その人その人のすることです。こうもあります。
わたしたちの振る舞いが、ただに獣としての欲を満たすという域から些かなりとも抜きんでるや、わたしたちの振る舞いの基は、きっと考えに貫かれているものだ。
はじまりの問いにおける「考えると振る舞う」の「と」は、要の「と」です。そこに、人という者の「者」、人であることの「こと」が懸かります。いわば、その「と」という間合いにおいて、人が、後先を合わせていればこそ、人であり、人という者です。
その要の「と」、まさに人の立場に立って、さて、「振る舞いの基を知っている」は、どういうことでしょうか。人が、立ちつつ、振る舞いつつ、外を知り、内を明るめるにおいて、知られた外のものごとも、明るめられた内のものごとも、そのまま立つことの支えであり、振る舞いの基です。そこでは自然法則が、「ただの」でなく、いわば「親しい」自然法則です。必然が、「かたくな」でなく、いわば「輝き、なごんだ」必然です。それは人を「支え」こそすれ、「強い」はしません。板に付く、堂に入る、といった、まあ、古いことばも、そこから使われていましょう。なお、内のものごと(求める、欲する、質)も、まずはおのずからにあり、まずもっては自然に他なりません。そこにある法則も、まずもっては自然法則です。もっとも、なにかというと分子や遺伝子をもちだす人からは、そのことがなかなか認めてもらえません。しかし、その人も、まさにその「もちだす」という振る舞いがなにに強いられてであるかを、みずから振り返ってみるなら、そのなにかが、その人に親しく、その人のものとなり、次からはそれに強いられることもなくなります。
(「かたくなな」に当たるのは、ehemであり、真鍮のことです。 そのことばは、金、銀、銅などの輝きとの対としても用いられていましょう。すなわち、 振る舞いつつ意識を向ける人にとって、必然は、親しく、輝き、なごみます。また、「基」すなわち「Grund」が「証拠」すなわち「証しの拠り所」という意味をもつのも、そこからです。そもそも「証す」は「明るくする」こと「光を当てる」ことです。)